伯爵家を支えていたのは私なのに、浮気した元旦那様に未練があるとでも? 幼馴染の騎士と再婚しますのでお帰りください

第05話【元旦那、カーディス視点】


 夜の深い静寂の中、カーディスは独り書斎の椅子に沈み込んでいた。
 手元には空になったグラスと冷めた酒瓶、そして皺の寄った離婚届。
 その白紙の余白が、何故か冷たい刃のように胸を刺し続ける。
 気づけば指先で紙の端をなぞりながら、過去の光景がまざまざと脳裏に蘇り始めていた。

 ──結婚当初のエリナは、今よりもずっと柔らかな笑顔を見せていた。

 朝の食卓で、カーディスが不機嫌そうに新聞を広げると、彼女は静かに紅茶を注いでくれた。

『今日は少し風が強いですね』

 彼女は笑ながら、何気ない言葉をかけてきた。
 そんな小さなやり取りすら、今思えば温かい空気に満ちていたのだと気づく。
 けれどその時の自分は、彼女の言葉を鬱陶しいとすら思い、耳を傾けることもなかった。

 夜、疲れて帰宅すると、エリナは静かに迎えてくれていた。
 寒い日にはスープを用意し、書類に目を通す自分にそっと毛布をかけてくれた。
 そんな些細な気遣いが、当たり前すぎて、何一つ感謝の言葉も返さなかった。
 むしろ「女が出しゃばるな」と冷たく言い放ったことすらあった。
 あのときのエリナの一瞬の表情──微かに沈む瞳、震える指先。
 それすらも、当時のカーディスは見ようとしなかった。

 ──なぜ、あんなに無関心でいられた?

 胸の奥にじくじくと広がる後悔が、今になってようやく形を持ち始める。
 耳の奥で、エリナの小さな笑い声が蘇る。

『あの花、今年も咲きましたね』

 庭の花壇で小さな花を見つけて微笑んでいたあの声。
 自分には何の価値もないことに思えていた彼女の言葉が、今では何よりも胸を締め付ける。

 ──あの花壇も、もう手入れする人はいないのだろうか?

 ふと、あの夜のことが蘇る。
 寒い夜、雨の音が響く部屋で、エリナが窓の外を見ながらそっと呟いた言葉。

『この土地の人たちが、少しでも幸せでいられますように』

 ──あの言葉が、今も耳に残っている。

「……くだらない。所詮は理想論だ」

 そう吐き捨てた声が、やけに震えていた。
 胸の奥で何かが音を立てて崩れ始めているのを、カーディスは感じていた。
 しかしそれを認めるには、あまりにもプライドが邪魔をした。
 酒瓶を握る手に力を込め、無理やり喉を潤そうとするが、苦い液体はむせ返るように胃の奥へ流れ込み、胸を焼くばかりだった。
 それでも、心の奥底で響く声があった。

 ──あの時、ただ一言「ありがとう」と言っていれば。

 ――あの時、ただ一度でも「お前が必要だ」と告げていれば。

 けれどもう、彼女はいない。
 冷たいシーツ、散らばった書類、冷めた紅茶の香りだけが、彼の目の前に残されていた。

  ▽

 数日後、昼下がりのことだった。
 カーディスはふらりと館の回廊を歩き、侍女たちのひそひそ声が耳に入った時、思わず足を止めた。
 陰になった廊下の隅、気づかれぬように耳を澄ますと、確かに名前が聞こえたのだ──「エリナ様」と。

「領主様の館にいらっしゃるらしいわ。しかも……護衛隊長のアレク様と一緒に、よく庭を歩いているって……」
「まさか再婚なんてことは……」
「まさか、ねぇ。でもあの方――アレク様、ずっとエリナ様のことを気にかけてたって噂じゃない?」

 小さな笑い声が混じり、楽しげな調子で言葉が交わされる。
 だがカーディスの耳には、その何気ない会話が雷鳴のように響いた。
 頭の奥で何かが弾け、息が詰まる。握り締めた拳が震え、爪が掌に食い込んだ。

「再婚……だと?」

 絞り出すような声が、喉の奥から漏れた。信じられない。
 あんな地味で、何の取り柄もない女が、俺を捨てた女が──誰かに愛される?
 誰かの隣で笑う? そんなこと、許せるはずがない。

「俺の妻だったんだぞ、あいつは……!」

 思わず壁を殴りつける。鈍い音と共に、壁に拳の跡が残り、手の甲が赤く染まった。
 それでも痛みは麻痺し、ただ熱い怒りだけが胸の奥で渦巻いていた。

(ふざけるな。エリナは俺のものだ。俺が呼べば戻ってくるはずだ。あの女が、俺を捨てて幸せになれるはずがないッ)

 そう思い込もうとするが、胸の奥で何かがじわじわと冷えていくのを感じた。
 足元がぐらりと揺れるような感覚。
 だが、必死にプライドという鎧で感情を封じ込め、カーディスは肩で息をしながら歯を食いしばった。

「……どうせ気の迷いだ。エリナは……あいつは、俺がいなきゃ何もできない女なんだ」

 吐き捨てるように呟くが、その声はかすれて弱々しかった。
 冷たい風が窓の隙間から入り込み、酔いの残る頭をさらに冷やす。
 その冷たさが、カーディスの胸の奥にわずかな不安を残したまま、重苦しい沈黙が書斎に広がっていった。

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