伯爵家を支えていたのは私なのに、浮気した元旦那様に未練があるとでも? 幼馴染の騎士と再婚しますのでお帰りください
第06話【幼馴染、アレク視点】
春の風が館の回廊を通り抜け、花の香りを運んできた。
アレクは庭へ続く扉の前で足を止め、ふと息を整えた。
館の使用人がざわめく声が耳に届く
「領主様の姪御様が戻られた」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が妙な高鳴りを見せた。
(──エリナが……?)
思わず早足になり、角を曲がった先で見たのは、荷馬車から降り立つ細い背中。
見覚えのある金色の髪が春の光にきらめき、そっと揺れた。
心臓が跳ねる音が耳の奥で響く。
どこか少し痩せた肩、緊張した面持ち、それでも無理に笑顔を作ろうとする唇の震え。
アレクはその姿に、思わず立ち尽くした。
(変わらない……あの頃のままだ……いや、違う……少し、弱ってる?)
何かが胸を締め付け、無意識に足が前へ出る。
けれど、すぐに立ち止まり、拳を握りしめた。
声をかけたい衝動に駆られるが、喉の奥が詰まり、言葉が出ない。
ただ、ずっと胸にしまってきた感情が今にも溢れそうで、息をするのも苦しい。
エリナは領主オスヴァルトと短く言葉を交わし、ぎこちなく笑みを浮かべていた。
彼女の指先が荷物に触れ、少しふらついた瞬間、反射的にアレクの手が伸びた。
「大丈夫か?」
その声が、自分の口から出たものだと気づくのに数秒かかった。
エリナが驚いたようにこちらを見上げ、目が合った。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「あ……ありがとう、アレク」
その声が、以前と同じ柔らかさで、自分の名を呼ぶ響きに胸が熱くなる。
だが同時に、心の奥底で苦い痛みが滲む──一体彼女はどのような生活をしていたのだろうか、と。
「荷物は俺が持つ。……無理するな」
短くそう告げると、荷物を抱え、彼女の前を歩き出す。
背後から小さな息を呑む音が聞こえた気がして、けれど振り返ることはできなかった。
胸の奥で何かがざわざわと渦を巻き、熱と痛みが入り混じった感情が渦巻いていた。
(──おかえり、エリナ)
その言葉が喉の奥まで上がったが、声にすることはできなかった。
▽
数日が経ち、エリナは館での新しい生活に少しずつ馴染もうとしていた。
アレクはその姿を遠くから見守りながら、胸の奥に静かに灯る感情を持て余していた。
彼女は、庭の花壇に腰を下ろし、小さな花の苗を植えている。
淡い陽光に金色の髪が照らされ、指先は泥で汚れても気にせず、真剣に土を掘り返す。
ふと、花を見つめながら微笑むその横顔に、アレクの視線は自然と吸い寄せられた。
(綺麗だ。昔よりも、ずっと)
そんな感情が胸の奥で静かに湧き上がる。
だが、同時に痛みもあった。
彼女の笑顔が、かつて自分ではなく、あの男に向けられていたという事実が、重くのしかかる。
それなのに今、自分はこうして彼女を見つめ、何も言えず、ただ立ち尽くしているだけだ。
エリナは、館の使用人たちにも優しく接していた。
疲れた顔のメイドに対し。
「大丈夫?」
そのように声をかけ、落とした皿を拾い上げる。
執事のグレイには笑顔で礼を言い、子どもたちには膝をついて視線を合わせる。
その一つ一つの仕草が、アレクには胸が痛むほど愛おしく見えた。
(──あの男は、こんな彼女に気づかなかったのか?)
怒りが込み上げ、同時に後悔も押し寄せる。
自分も、彼女があの家に嫁ぐ前、何もできず、何も言えなかった。
もしあの時、あと一歩踏み出していれば──そんな考えが胸を掻きむしるように疼いた。
夜、回廊の影に身を潜め、窓越しに彼女の姿を見つめる時間が増えた。
机に向かい、熱心に帳簿をめくる横顔。
ふとした拍子に窓の外を見上げ、小さく溜息をつくその表情。
その全てが、アレクの胸を締め付けた。
(……もう、見ているだけでは駄目だ。気持ちを言わないと、また――)
拳を強く握り、彼女の笑顔を守ると心に誓った。
守りたい──その気持ちは護衛としての責任を超え、男としての、ひとりの人間としての純粋な想いへと変わり始めていた。