伯爵家を支えていたのは私なのに、浮気した元旦那様に未練があるとでも? 幼馴染の騎士と再婚しますのでお帰りください
第07話【幼馴染、アレク視点】
日差しが和らぎ、春の風が館の回廊を通り抜けていく昼下がり。
アレクは書類を片手に歩いていた。館の片隅で、ふと聞き慣れた名が耳に入る。
『カーディス様』という響きに、足が止まった。
廊下の奥では使用人たちがひそひそと話している。
声を潜めているつもりだろうが、耳を澄ませば十分に聞き取れる距離だ。
アレクは柱の陰に身を潜め、自然な振る舞いを装いながらその声に耳を傾けた。
「……聞いた? カーディス様、まだエリナ様を取り戻す気でいるらしいわ」
「まさか、今さら……? あの人、もうエリナ様に何もできる立場じゃないでしょう?」
「でも、ほら……カーディス様って、しつこいっていうか……執着が強いって噂じゃない? だから、なんだか怖くて……」
「エリナ様、大丈夫かな……。今はアレク様がいるから、きっと……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが熱く燃え上がった。
拳が無意識に固く握られる。
エリナの笑顔を脳裏に思い浮かべ、傷ついたような顔を思い出す。
彼女が再び傷つく姿を、絶対に見たくない──強烈な怒りが全身を駆け巡った。
「……あいつが、またエリナを苦しめるだと? ふざけるなッ」
低く呟き、歯を食いしばる。
拳の中で爪が食い込み、鈍い痛みが広がるが、それすらも意識から弾き飛ばした。
心臓が鼓動を早め、身体の奥から湧き上がる熱に呼吸が荒くなる。
──絶対に、あの男を近づけさせない。今度こそ、必ず俺が守る。
決意は心の奥で固まり、鋼のように重く、強く彼の胸に刻まれた。
そんな時、背後から低く落ち着いた声が聞こえた。
「アレク──焦りは禁物だぞ」
振り返ると、オスヴァルトが静かに立っていた。
白髪の混じる髪を後ろで束ね、落ち着いた目がアレクを見つめている。
その眼差しには、長年領地を守ってきた者の厳しさと、同時に温かさが宿っていた。
「……申し訳ありません、領主様……つい、感情的になりました」
アレクは背筋を伸ばし、深く頭を下げた。だが、胸の奥で燃える感情は消えない。
オスヴァルトはゆっくりと歩み寄り、彼の肩に手を置いた。
「お前の気持ちは分かる。だが、守りたいなら、まずは心を整えよ。怒りに任せて剣を振るうのは若者の過ちだ……エリナのためにも、冷静になれ、良いな?」
その言葉は重く、そして静かに心に染み渡った。アレクは肩の力を抜き、深く息を吐いた。
「はい……必ず、彼女を守ります。今度こそ、後悔しません」
オスヴァルトは小さく頷き、彼の肩を軽く叩いて立ち去った。
残されたアレクは拳を解き、再び決意を胸に刻む。
どんな手を使っても、彼女を傷つける者は近づけさせないと胸に誓いながら、アレクは拳を再度握りしめた。
▽
――彼女を守るために、自分の気持ちをぶつけてみた。
夕暮れの庭に、薄紅色の光が差し込んでいる。
アレクは拳を強く握り、深く息を吸い込んだ。
目の前で小さな苗を片付けるエリナの背中が、いつにも増して頼りなく見えて、胸の奥が疼く。
今この瞬間、伝えなければならない──そう強く思った。
「……エリナ」
声が掠れ、少し震えた。エリナが振り返り、目を見開く。
光を受けたその瞳が、かすかに揺れているのが分かった。
呼吸が浅くなり、心臓が早鐘のように鳴る。だが、もう後戻りはできなかった。
「俺は……お前があの男にどれだけ尽くしてきたか、全部見てきた。お前が笑顔を失っていくのも、声を殺して泣いていた夜も……何もできず、ただ見ていた自分を、ずっと悔いてた」
言葉が喉を震わせ、熱を帯びて溢れ出した。
エリナが僅かに肩を震わせるのが見える。
声をかけた自分の手が、小さく震えているのが分かったが、もう止められなかった。
「だから、今度こそ……お前が泣く夜も、笑う朝も、全部、俺が見届けたい。俺の傍にいてくれ」
息を詰め、彼女の反応を待った。
だが次の瞬間、エリナが大きく目を見開き、言葉にならない声を震わせた。その表情があまりに驚きに満ちていて、胸が締めつけられるようだった。
「そ、そんな……嘘、でしょ? 嘘だよね?」
消え入りそうな声が、耳に届く。
アレクは目を細め、微かな笑みを浮かべて首を横に振った。
心の奥にあった迷いが、ようやく霧のように消えていくのを感じた。
「嘘じゃない。本気だ」
静かな声でそう告げると、エリナの瞳から涙が溢れた。
細い肩が震え、震える指先が自分の袖にそっと触れた瞬間、胸の奥が熱くなる。彼女が、ようやく感情を外に出してくれたことが、何よりも嬉しかった。
「……アレク、本当に……私でいいの?」
震える声に、アレクは一瞬目を閉じ、もう一度深く頷いた。
手を取ると、その温もりが確かに掌に伝わり、二度と離すまいと強く握りしめた。
「もちろんだ。これからは俺が守る。何があっても、必ず」
夕焼けに染まる空の下で、エリナが泣きながら自分の手を握り返してくれた。
その涙が、彼女の心が少しずつ開かれていく証に思えて、アレクはそっとその手を包み込み、胸の奥で固く誓った──もう二度と、彼女を一人にはしないと。