伯爵家を支えていたのは私なのに、浮気した元旦那様に未練があるとでも? 幼馴染の騎士と再婚しますのでお帰りください
第08話
翌日、まだ春の冷たい風が庭をそよがせる朝、エリナは落ち着かない胸の高鳴りを抱えながら、館の応接間に入った。
重厚な木製の扉を開けると、奥に座っていたのは叔父である領主オスヴァルトだ。
銀の髪を後ろで束ね、歳月を重ねた穏やかで鋭い眼差しをこちらに向けてくる。
その視線を正面から受け止めるのに、エリナは自然と背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
胸の奥で鼓動が速まり、手のひらがじんわりと汗ばむ。
「そうか……決めたのだな、エリナ」
低く、静かな声が響く。その言葉の重みが胸に染み入り、エリナはもう一度、深く息を吸い込んだ。
そして震える声で、しかし確かな決意を込めて答えた。
「はい。私……アレク様と、再婚を望みます」
その言葉を口にする瞬間、心の奥が何かから解き放たれるように軽くなった。
頬が熱くなり、胸が締めつけられるような不思議な感覚に包まれる。
思い出すのは、アレクの真剣な瞳と、あの日の言葉。
震える指を包み込んでくれた彼の手の温もりが、まだ掌に残っている気がした。
オスヴァルトは一瞬目を閉じ、そしてゆっくりと頷いた。
長年この地を守ってきた者としての厳しさと、家族への穏やかな慈愛が、その表情に静かに滲んでいる。
そして、彼はそっと手を差し出し、エリナの手を包み込むように握った。
「よく言った。私は、お前の後見人として立ち会おう……幸せになるのだぞ、エリナ」
その言葉に、堪えていた涙が込み上げてきた。
胸が熱くなり、視界が滲む。けれど、エリナは必死に笑みを作り、深く頭を下げた。
叔父の手の温もりが、これから先の未来への背中をそっと押してくれているように感じられた。
(もう、大丈夫。私はこの人の隣で、歩いていくから)
その日の夜、館の食堂の一角で、エリナとアレクは並んで座っていた。
食事を終えたあとの穏やかな時間、蝋燭の灯りがテーブルを優しく照らし、暖かな空気が二人の間に漂っていた。
「エリナ、緊張してる?」
アレクがふと笑みを浮かべて問いかける。
その声に、エリナは小さく肩を揺らし、慌てて首を振った。
「いえ……ただ、こんなふうに注目を浴びるのが、少し恥ずかしくて……」
「俺もだよ。だけど、大丈夫。何があっても、俺が傍にいる」
アレクが穏やかに言い、そっとエリナの手を取った。
その手は大きくて温かく、指先がかすかに震えているのが伝わってくる。
エリナは思わず微笑み、そっと彼の手を握り返した。
「ありがとう、アレク……私、本当に、こうしていてもいいのかな……」
エリナの声は震えていた。
胸の奥にまだ少しだけ残る不安が滲み出てしまう。
でも、その言葉を遮るように、アレクがしっかりと頷いた。
「エリナ、お前が何を背負ってきたか、全部分かってる。だから、もう無理をしなくていい。お前が泣きたいときは泣けばいい。笑いたいときは笑えばいい。俺が全部受け止めるから」
「……アレク……」
言葉が胸の奥で溢れ、涙が込み上げる。
アレクの手がそっと頬に触れ、親指で一粒の涙を拭う。
その優しさに、胸がぎゅっと熱くなる。
「これからは、一緒に生きていこう。俺の傍で、笑っていてほしい」
「……うん……ありがとう……」
声がかすれ、涙が頬を伝った。
アレクの手が強く、自分の手を包み込む。その力強さが、エリナの心に深く響く。
ふと、背後から笑い声と話し声が聞こえてきた。
振り返ると、叔父のオスヴァルトがゆっくりと近づいてくる。
「どうやら、良い雰囲気だな」
「叔父様……」
エリナは慌てて立ち上がろうとしたが、オスヴァルトが手を挙げて制した。
「座っていなさい。こうして見ると、本当に似合いの二人だ」
「ありがとうございます……叔父様」
言葉が胸に染み入り、涙がまた溢れそうになる。アレクも少し照れたように頭を下げた。
「俺が後見人を務めること、領内にも伝えた。噂が広まっているようだが……」
「ええ、私も……聞きました」
エリナがそっと笑うと、アレクが少し肩を寄せ、囁くように言った。
「気にするな。どんな声があっても、俺はお前の味方だ」
その言葉に胸が震え、エリナは小さく頷き、涙を堪えきれず笑った。
アレクの肩にそっと額を預け、彼の温もりを感じながら、胸の奥で静かに思った──この手を、もう二度と離さない。
周囲のざわめきや好奇の視線すら、今は遠く霞んでいた。
けれど、館のあちこちでは、二人の婚約が大きな話題になっていた。
「あの元伯爵夫人が、地元の騎士と結婚するんだって?」
「あの騎士様、ずっと彼女を見守ってたって噂だよ」
「まるでおとぎ話みたいだわ」
──そんな声が、庭先や厨房、使用人たちの間で飛び交い、忙しく立ち働く中でも誰もがその話題を耳にしていた。
エリナが廊下を歩くと、メイドたちが小さく頭を下げ、時折目を合わせて微笑みかけてくれるようになった。
以前は数人のメイド達はただの『元伯爵夫人』として遠巻きに見られていた自分が、今は少しずつこの場所に溶け込めていることを感じた。
式の準備も少しずつ始まっていた。
食堂の大きなテーブルには、花のカタログや布地の見本が広げられ、メイド長のマリアが楽しそうにしながら問いかける。
「この色はどうでしょう、奥様!」
「ええ、素敵ね」
笑顔で声をかけてくるマリアに対し、エリナはと答え、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
アレクはと言えば、式の警備の確認や招待客の名簿に目を通し、執務机に向かって真剣な表情を浮かべていた。
その横顔をそっと盗み見ては、胸が高鳴る。
ふと、彼が視線を上げ、エリナの目を見つめて小さく笑みを見せる。
そんなささやかな瞬間が、何より幸せだった。
──これからは、この人と生きていく。この手を、もう二度と離さない。
エリナは胸の奥でそっと、けれど強く決意した。