伯爵家を支えていたのは私なのに、浮気した元旦那様に未練があるとでも? 幼馴染の騎士と再婚しますのでお帰りください

第09話


 春の光が降り注ぐ穏やかな朝、結婚式の準備が慌ただしく進められていた。
 庭には白い花が咲き誇り、色とりどりの花びらが風に舞い、テーブルには純白のリネンが丁寧に敷かれている。
 空は高く澄み渡り、木漏れ日が柔らかに差し込み、花々の香りが甘く鼻腔をくすぐる。
 会場に集まる人々の笑い声や祝福のさざめきが、空気を優しく彩り、あちこちでエリナの名前が聞こえる。

「エリナ様、本当にお美しいわ」
「まるで夢のようね」

 そのような声が、聞こえてきた。

 エリナは淡いクリーム色のドレスに身を包み、胸の奥で高鳴る鼓動を感じていた。
 鏡の前に立つ自分は、どこか夢の中の人のようで、頬には自然な紅が差し、指先は緊張でかすかに震えていた。
 髪には白い花の髪飾りが飾られ、柔らかくまとめられたその姿に、自分でも思わず見惚れてしまう。

「……本当に私なの?」

 小さく呟くと、鏡の中の自分がそっと笑い返してくれる気がして、胸の奥がくすぐったくなる。
 そんな時、背後からそっと近づく気配と共に、低く優しい声が届いた。

「……綺麗だよ、エリナ」

 驚いて振り返ると、そこにはアレクが立っている。
 少しだけ照れたような笑みを浮かべながらも、その視線は真剣で、まるで宝物を見つめるような眼差しだった。
 胸が熱くなり、自然と微笑みがこぼれてしまう。
 息を呑んだまま言葉を探す自分の前で、アレクがそっと手を差し出した。

「緊張してる?」
「……少しだけ……でも、アレクがそばにいてくれるから、大丈夫よ」

 そう答えると、アレクが小さく笑う。

「それなら良かった」

 エリナに対し、アレクはそのように低く囁いた。
 その声に胸がじんわりと温かくなる。彼の手が優しくエリナの指に触れ、重なる。
 その温もりが、指先から心の奥深くまでじんわりと染み渡っていく。

「これから先も、ずっと一緒にいる。何があっても、俺が守るから」
「うん……ありがとう」

 その言葉が優しく、でも強く響いたので、エリナは思わずそのように頷いた後、そっと彼の手を握り返した。
 その瞬間、胸の奥からあふれ出す幸福感が全身を包み込み、思わず涙が滲む。
 アレクがその涙をそっと指で拭い、優しく微笑んだ。

「泣くな、せっかくの晴れ姿が台無しだ」
「だって……幸せすぎて……」

 その言葉に、アレクも小さく笑い、少しだけ肩をすくめた。
 その様子が可笑しくて、エリナも笑いながら頬に手を当てた。
 周囲のざわめきや花の香り、光の粒がきらきらと舞う空間が、夢のように思えた。

(……これから、始まりなんだ)

 そう胸の奥で確かに思いながら、エリナはそっと目を閉じた。

 だが、その幸せな時間が破られたのは、突然のことだった。
 会場の入り口から重い足音と荒い息遣いが響き、招待客たちのざわめきが広がる。
 エリナがはっと顔を上げたとき、そこに立っていたのは──カーディスだった。

「エリナ!」
「え……」

 エリナが視線を向けた先にいたカーディスは乱れた髪と焦燥を滲ませた顔で、式場に踏み込んできた。
 酒の匂いを漂わせ、必死に何かを叫びながら、誰もが息を呑む中を突き進んできた。
 その姿は、かつての伯爵の威厳とは程遠く、憔悴しきった男の無様な姿だった。

「お前がいなくなってから、何も回らなくなった! 頼む、戻ってきてくれ……!」

 声は震え、情けなく響き、膝をつきそうなほど力なく叫ぶその姿に、会場は一瞬で凍りついた。
 エリナの心臓が冷たく締め付けられ、呼吸が浅くなる。
 その視線はかつて愛したはずの人を見つめるもので、けれどもうそこには何の絆も残っていなかった。

「やり直そう……な? あんな離婚届、勢いで書いただけなんだ……やっぱり、俺にはお前しかいないんだ……」

 縋るような声に、周囲の視線がさらに集まり、ざわめきが波のように広がった。
 誰もが何も言えず、ただ静まり返る空気の中、アレクがそっと一歩前に出た。
 その背中は広く、頼もしく、エリナの震える心をそっと包み込むようで――アレクが低く、しかし確かな声で告げた言葉が、場の空気を切り裂くように響いた。

「この人は、もうあなたのモノではなく、俺のなる人だ……帰れ」

 その一言に、誰もが息を呑んだ。
 カーディスは顔を引きつらせ、何かを言い返そうとしたが、その声はかすれて届かず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
 招待客たちは誰も口を開かず、ただアレクの言葉が残した余韻の中で、重い沈黙が会場を支配していた。
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