キスはボルドーに染めて

前へ進むために

「今ですねぇ、お客さんがなーんも持ってないって言って……。はい、はい。そうなんですよ。現金もカードも、携帯すらないらしいんですわ……」

 タクシー会社の事務所に電話をかける運転手の呆れた声を聞きながら、陽菜美は小さく息をつく。

「すごい、迷惑かけちゃったな」

 いくら一秒でも早く、あの場を立ち去りたかったからと言って、勢いで飛び出してしまった自分に反省する。

「これじゃあ、前と一緒じゃない」

 はぁと大きくため息をついた陽菜美は、コツンと頭を後部座席のシートに乗せた。


「これからどうしようかな……」

 小さくつぶやいた脳裏に、蒼生の笑顔が浮かび、陽菜美の視界は再び滲みだす。

 どれだけ忘れようとしても、蒼生のことを忘れることなんてできない。

 陽菜美は天井に顔を向けると、必死に涙を堪えるように目を閉じた。


 ――もういっそのこと、行った先のフランスで、仕事でも探そうかな。


 陽菜美がそんなことを考えた時、突然ぬっと運転手の顔が目の前に覗き込んできて、陽菜美は「ひっ」と軽く声を漏らした。

「お客さんねぇ、とりあえず一緒に警察署に行ってもらってもいいですかね? 身分証も何もないんじゃ、こっちもどうしようもないんですよ」
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