私のことが必要ないなんて言わせません!【菱水シリーズ③】

June 第20話 call【理滉】

ドイツのアパートメントに戻り、コンサートのリハに向けて練習を始めた。
髪をまとめ、無音の中で弾く―――煩わしいことはなにもない。
向こうと違って、六月のドイツに梅雨はなく、すっきりと晴れた日が続いていた。
過ごしやすく、体調も悪くない。
それなのになぜか気分が乗らない。
音が微妙に違う。
ほんのミリ単位でも指に触れる弦が違えば、音が狂う。
チェロは繊細な楽器だ。
集中できていないのがすぐにわかってしまう。
溜息をつき、髪をほどいた。
ドイツに戻れば、俺はまたいつものように戻れると思っていた。
チェロが重たく感じることなど一度もなかった。
それが、今はずしりと手に重くのしかかっているような気がしてならない。
弓を置く。
今は何を弾いてもうまくいかないだろう。
ワインセラーから白ワインを取り出し、ワイングラスに注いだ。
明るい日差しを眺めながら、昼間からワイン。
外から見える俺は『なんの仕事をしているんだ?』そう思われているかもしれない。
スマホを手にすると、マネージャーの渡瀬から着信があった。
新しい仕事の依頼かもしれない。
けど、今は何も引き受ける気にはなれなかった。
―――断ろう。
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