25年ぶりに会ったら、元・政略婚相手が執着系社長になってました

あなたのそばに

真樹の退院の日。
病院の玄関で出迎えの車に乗り込んでから、ほとんど言葉は交わさなかった。
けれど、沈黙はどこか心地よく、ふたりの間に流れる空気は穏やかだった。

エレベーターが静かに最上階に到着した。
扉が開くと、真樹のマンションの玄関ドアが目の前に現れる。
そのドアの前で、美和子はバッグの中から一枚のカードキーを取り出した。

「……それ」

真樹が口を開く。
見覚えのあるそのカードを見て、思わず眉をひそめた。

「颯真くんから、受け取ったの。あなたが退院した日に、一緒に入ってあげてくださいって」

カードをかざすと、小さな電子音とともに、ロックが外れる。

カチャリ。

静かにドアを開け、美和子が一歩、先に室内へと足を踏み入れる。
そのままくるりと振り返ると、真樹に微笑みかけた。

「お帰りなさい、真樹さん」

一瞬、時が止まったようだった。

彼女がこの場所の“鍵”を開け、自分を迎え入れる。
ただそれだけのことなのに、胸の奥に静かな衝撃が広がっていく。

「……ただいま」

その言葉を口にしたとき、真樹の声は少しだけ掠れていた。
けれど、それは紛れもない、本物の安堵と喜びに満ちていた。

玄関に並ぶ、ふたつのスリッパ。
部屋に満ちる、微かに漂う彼女の香り。
そこにはもう、かつての孤独はなかった。

ソファにゆっくりと腰を下ろす真樹の隣に、美和子もそっと座った。
真新しいクッションの感触と、ほのかに香る美和子の香りが、どこかくすぐったい。

ふたりの間に、短い沈黙。

やがて、真樹が横顔のまま問いかけた。

「驚いたか?……この部屋」

美和子は少し笑って、頷いた。

「ええ、驚いたわ。……でも、嬉しかった。全部が、私の好きなもので整えられていて」

視線を前に向けたまま、まっすぐな声で続ける。

「ありがとう。私のために……いえ、私たちの未来を準備していてくれて、ありがとう」

一瞬だけ、真樹の肩がわずかに緩んだように見えた。

「他のの部屋を見たか?」

「ええ。颯真くんが案内してくれたの。書斎に通してくれて……」

その言葉に、真樹の視線がぴたりと止まる。

「——見たんだな。あの、君のお見合い写真を」

美和子は小さく息を飲んだあと、肩をすくめるように笑った。

「……本当にびっくりしたわ。まさか、あれがここにあるなんて思わなくて」

少しだけ間を置いて、苦笑まじりに言う。

「どうしてここにあるのか、最初はわからなかった……あなたのことが、少し怖くなったわ」

真樹は目を伏せ、短く笑った。

「……正直だな。そう言ってくれて、ありがたいよ」

その声には、どこか安堵と諦め、そして微かな照れが滲んでいた。

「……でも、あれを捨てることだけは、できなかった。たった一度の出会いだったけど、あの時の君の横顔が——ずっと俺の中に残ってたんだ」

そしてゆっくりと、美和子の手に、自分の指を重ねる。

「……怖くても、ここに来てくれて、ありがとう」

美和子はその手を受け取り、ふっと微笑んだ。

「怖くても……来たかったの。あなたの隣に」
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