ダイエットなんてできません - 地味系プログラマーとワイルド系SE
第五話 「帰りの食事」
その週の金曜日。
オフィスの灯りもまばらになった頃、穂花はまだ自席でキーボードを叩いていた。
対応していたのは、金融商品ごとの業績レポート出力で発生した不具合だった。
キャンペーン商品名が異常に長く、印刷用フォーマットのレイアウトが崩れてしまう――ありがちだけど厄介な問題だ。
文字を途中でカットするか、フォントサイズを調整するか、それとも複数行に分割するか。
どの修正案にも一長一短があり、穂花はメリット・デメリットを整理しながら、検討資料をまとめていた。
――ここで遅れると、来週の全体スケジュールに影響が出る。
時刻はすでに二十時を過ぎている。
少し首を回して伸びをしたときだった。
「……あれ? 穂花さんが残業なんて、ちょっとレアだね」
声に顔を上げると、ちょうど通りかかった隆二が立ち止まっていた。
「あ……レポートのレイアウト不具合の件で、資料をまとめてて」
「そっか。責任感あるなあ。でも……無理はしないようにね」
そう言って、軽く笑いながらその場を離れていった。
◇◇
やっとのことで資料がまとまり、日報に残業時間と業務内容を記録していると、背後に再び足音が近づく。
「お疲れさま。終わった?」
「はい。なんとか、今日中にまとめきれました」
「それはよかった。……ねえ、もしよかったら、このまま一緒にご飯でもどう?」
穂花の手が、一瞬、マウスの上で止まった。
――まさか、待ってた……わけじゃ、ないよね?
軽く首を傾げて、隆二が視線を合わせてくる。
「この時間まで頑張ったなら、ご褒美くらいあってもいいと思うんだけど」
「……はい。行きたいです」
そう答えたとき、自分でも驚くほど素直に言葉が出ていた。
隆二は、ふっと笑って、「じゃあ、片付けたら声かけて」と言って席を離れた。
モニターをシャットダウンしながら、穂花は静かに頬を指で押さえた。
――なんだろう、この嬉しさ。今日、がんばってよかったな。
バッグを肩にかけたその歩幅は、少しだけ軽くなっていた。
◇◇
二人が向かったのは、会社最寄りの代々木駅近くにある、落ち着いた雰囲気の定食屋だった。
「ここ、残業のときによく秀樹と来るんだ。帰りが遅いと、自炊するのも面倒でさ」
「……隆二さん、自炊するんですね」
思わず意外そうな声が出る。
「するよ。簡単な炒め物とか、焼くだけのやつとかだけど。意外?」
「ちょっと。でも、すごいですね。私は……嫌いじゃないけど、手際はよくないかも」
「穂花さん、チャチャッと作るタイプに見えるけどな」
「そんな器用じゃないですよ」
そう言いながらも、内心は少しだけ嬉しい。
ホールスタッフがメニューを運んできて、テーブルに置いた。
隆二がさっとスマホを取り出し、モバイルオーダーの画面を開く。
「俺、ロースカツ定食にしようかな。がっつり食べたい気分」
「じゃあ、私は……白身魚の野菜あんかけ定食で。あっさり目で」
「何か飲む?」
「お酒は……あまり強くないので、やめておきます」
――飲めなくはないけど、酔ってるところなんて見せたくないし。
「じゃあ俺もやめとくよ」
「遠慮しないでください。飲みたかったんじゃ?」
「いや。穂花さんと普通に話すほうが楽しいからさ」
「……」
その言葉に、自然と顔が熱くなるのを感じた。
注文を終えると、ふと、穂花が聞いた。
「そういえば、隆二さんって夏希の彼の……秀樹さんと同期なんですか?」
「いや、秀樹は二つ上の先輩。でも、リーダー同士でタメ口だから、よく同期に間違えられる」
隆二は笑って言う。
――ということは、隆二さんは28歳。夏希が言ってた通り……。
やがて料理が運ばれてきた。
揚げたてのロースカツ、湯気を立てるあんかけの白身魚。香ばしい匂いがふわりと立ちのぼる。
「いただきます」
二人は並んで手を合わせる。
「そういえば、大学のとき、バンドやってたって言ってましたよね」
箸を進めながら穂花が聞く。
「ああ。ギターがメインで、たまにボーカルもやってた。今はもうやってないけどね。SEって、時間が読めないし」
「たしかに……。でも、すごいですね。ライブとかも出てたんですか?」
「うん。学園祭とかライブハウスとか。青春だったよ」
そう言う隆二の横顔が、どこか懐かしそうに見えた。
「穂花さんは? 休日はどんな感じ?」
「え、えっと……」
――基本、ごろごろしてWeb小説読んで、お菓子食べて、寝てるだけだけど……。
「本を読んだり、動画配信で映画観たり……とか、かな」
「いいじゃん。のんびりできる時間って、大事だと思う」
その言葉に、穂花の肩の力がすっと抜けた。
――気を張らなくていいんだ、この人の前では。
会話は、途切れそうで途切れない。
食べる合間に、ぽつぽつと交わされる言葉が、心地よく胸に響いていた。
「今日は、俺が誘ったから払わせて」
「ありがとう。次は私が出すね」
会計を済ませて外に出ると、夜風がほんの少しだけ、夏の気配を運んできた。
店を出ると、夜の空気がふわりと肌を撫でた。
喧騒の残る代々木の駅前も、金曜の夜にしては穏やかだった。
「……涼しくなってきましたね」
そう口にすると、隆二がジャケットのポケットに手を入れながら頷いた。
「うん。昼間はまだ暑かったけど」
駅までの短い道のり。
週末前の静けさのなか、二人の足音だけがアスファルトに心地よく響く。
「今日、資料まとめてたのって、レイアウトの不具合だったんだよね」
「はい。キャンペーンの商品名が長すぎて……レポートの出力が崩れちゃって」
「あるあるだね。フォント小さくしすぎると今度は読みづらくなるし、調整って地味だけど神経使う」
「そうなんです。複数行にするにしても、印刷の行数が変わるから、影響調べるのも地味に大変で」
穂花が苦笑すると、隆二も「わかるわー」と肩をすくめて笑った。
――こうして仕事の話ができるのも、なんだか嬉しい。
やがて、代々木駅の北口の改札前に差しかかる。
改札に向かって歩きながら、穂花はふと足を緩めた。
「……私、JRなんです。こっちで」
「あ、そっか。俺は大江戸線だから」
「今日は、ごちそうさまでした。楽しかったです」
小さく頭を下げた穂花に、隆二は少し首をかしげて笑った。
「それ、仕事帰りに言うセリフじゃないよ。……でも、俺も楽しかった。残業してくれて、ありがとう」
「それって……」
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
言いかけて、結局、口に出せなかった。
――もし、あのとき資料が早く終わってなかったら、今日のごはんはなかったかもしれない。
でも、もしかして……待っててくれたのかな。なんて。
「じゃあ、また来週」
「はい。……おつかれさまでした」
改札を抜けて振り返ると、隆二はまだ同じ場所に立っていて、軽く手を振った。
穂花も、少し恥ずかしそうに手を振り返す。
電車を待ちながら、穂花はバッグの中からスマホを取り出した。
メッセージを送るか迷って――でも、やっぱりやめた。
――今日は、余韻のまま帰ろう。
画面を伏せて、穂花はホームに入ってきた電車に乗り込んだ。
オフィスの灯りもまばらになった頃、穂花はまだ自席でキーボードを叩いていた。
対応していたのは、金融商品ごとの業績レポート出力で発生した不具合だった。
キャンペーン商品名が異常に長く、印刷用フォーマットのレイアウトが崩れてしまう――ありがちだけど厄介な問題だ。
文字を途中でカットするか、フォントサイズを調整するか、それとも複数行に分割するか。
どの修正案にも一長一短があり、穂花はメリット・デメリットを整理しながら、検討資料をまとめていた。
――ここで遅れると、来週の全体スケジュールに影響が出る。
時刻はすでに二十時を過ぎている。
少し首を回して伸びをしたときだった。
「……あれ? 穂花さんが残業なんて、ちょっとレアだね」
声に顔を上げると、ちょうど通りかかった隆二が立ち止まっていた。
「あ……レポートのレイアウト不具合の件で、資料をまとめてて」
「そっか。責任感あるなあ。でも……無理はしないようにね」
そう言って、軽く笑いながらその場を離れていった。
◇◇
やっとのことで資料がまとまり、日報に残業時間と業務内容を記録していると、背後に再び足音が近づく。
「お疲れさま。終わった?」
「はい。なんとか、今日中にまとめきれました」
「それはよかった。……ねえ、もしよかったら、このまま一緒にご飯でもどう?」
穂花の手が、一瞬、マウスの上で止まった。
――まさか、待ってた……わけじゃ、ないよね?
軽く首を傾げて、隆二が視線を合わせてくる。
「この時間まで頑張ったなら、ご褒美くらいあってもいいと思うんだけど」
「……はい。行きたいです」
そう答えたとき、自分でも驚くほど素直に言葉が出ていた。
隆二は、ふっと笑って、「じゃあ、片付けたら声かけて」と言って席を離れた。
モニターをシャットダウンしながら、穂花は静かに頬を指で押さえた。
――なんだろう、この嬉しさ。今日、がんばってよかったな。
バッグを肩にかけたその歩幅は、少しだけ軽くなっていた。
◇◇
二人が向かったのは、会社最寄りの代々木駅近くにある、落ち着いた雰囲気の定食屋だった。
「ここ、残業のときによく秀樹と来るんだ。帰りが遅いと、自炊するのも面倒でさ」
「……隆二さん、自炊するんですね」
思わず意外そうな声が出る。
「するよ。簡単な炒め物とか、焼くだけのやつとかだけど。意外?」
「ちょっと。でも、すごいですね。私は……嫌いじゃないけど、手際はよくないかも」
「穂花さん、チャチャッと作るタイプに見えるけどな」
「そんな器用じゃないですよ」
そう言いながらも、内心は少しだけ嬉しい。
ホールスタッフがメニューを運んできて、テーブルに置いた。
隆二がさっとスマホを取り出し、モバイルオーダーの画面を開く。
「俺、ロースカツ定食にしようかな。がっつり食べたい気分」
「じゃあ、私は……白身魚の野菜あんかけ定食で。あっさり目で」
「何か飲む?」
「お酒は……あまり強くないので、やめておきます」
――飲めなくはないけど、酔ってるところなんて見せたくないし。
「じゃあ俺もやめとくよ」
「遠慮しないでください。飲みたかったんじゃ?」
「いや。穂花さんと普通に話すほうが楽しいからさ」
「……」
その言葉に、自然と顔が熱くなるのを感じた。
注文を終えると、ふと、穂花が聞いた。
「そういえば、隆二さんって夏希の彼の……秀樹さんと同期なんですか?」
「いや、秀樹は二つ上の先輩。でも、リーダー同士でタメ口だから、よく同期に間違えられる」
隆二は笑って言う。
――ということは、隆二さんは28歳。夏希が言ってた通り……。
やがて料理が運ばれてきた。
揚げたてのロースカツ、湯気を立てるあんかけの白身魚。香ばしい匂いがふわりと立ちのぼる。
「いただきます」
二人は並んで手を合わせる。
「そういえば、大学のとき、バンドやってたって言ってましたよね」
箸を進めながら穂花が聞く。
「ああ。ギターがメインで、たまにボーカルもやってた。今はもうやってないけどね。SEって、時間が読めないし」
「たしかに……。でも、すごいですね。ライブとかも出てたんですか?」
「うん。学園祭とかライブハウスとか。青春だったよ」
そう言う隆二の横顔が、どこか懐かしそうに見えた。
「穂花さんは? 休日はどんな感じ?」
「え、えっと……」
――基本、ごろごろしてWeb小説読んで、お菓子食べて、寝てるだけだけど……。
「本を読んだり、動画配信で映画観たり……とか、かな」
「いいじゃん。のんびりできる時間って、大事だと思う」
その言葉に、穂花の肩の力がすっと抜けた。
――気を張らなくていいんだ、この人の前では。
会話は、途切れそうで途切れない。
食べる合間に、ぽつぽつと交わされる言葉が、心地よく胸に響いていた。
「今日は、俺が誘ったから払わせて」
「ありがとう。次は私が出すね」
会計を済ませて外に出ると、夜風がほんの少しだけ、夏の気配を運んできた。
店を出ると、夜の空気がふわりと肌を撫でた。
喧騒の残る代々木の駅前も、金曜の夜にしては穏やかだった。
「……涼しくなってきましたね」
そう口にすると、隆二がジャケットのポケットに手を入れながら頷いた。
「うん。昼間はまだ暑かったけど」
駅までの短い道のり。
週末前の静けさのなか、二人の足音だけがアスファルトに心地よく響く。
「今日、資料まとめてたのって、レイアウトの不具合だったんだよね」
「はい。キャンペーンの商品名が長すぎて……レポートの出力が崩れちゃって」
「あるあるだね。フォント小さくしすぎると今度は読みづらくなるし、調整って地味だけど神経使う」
「そうなんです。複数行にするにしても、印刷の行数が変わるから、影響調べるのも地味に大変で」
穂花が苦笑すると、隆二も「わかるわー」と肩をすくめて笑った。
――こうして仕事の話ができるのも、なんだか嬉しい。
やがて、代々木駅の北口の改札前に差しかかる。
改札に向かって歩きながら、穂花はふと足を緩めた。
「……私、JRなんです。こっちで」
「あ、そっか。俺は大江戸線だから」
「今日は、ごちそうさまでした。楽しかったです」
小さく頭を下げた穂花に、隆二は少し首をかしげて笑った。
「それ、仕事帰りに言うセリフじゃないよ。……でも、俺も楽しかった。残業してくれて、ありがとう」
「それって……」
「ん?」
「……いえ、なんでもないです」
言いかけて、結局、口に出せなかった。
――もし、あのとき資料が早く終わってなかったら、今日のごはんはなかったかもしれない。
でも、もしかして……待っててくれたのかな。なんて。
「じゃあ、また来週」
「はい。……おつかれさまでした」
改札を抜けて振り返ると、隆二はまだ同じ場所に立っていて、軽く手を振った。
穂花も、少し恥ずかしそうに手を振り返す。
電車を待ちながら、穂花はバッグの中からスマホを取り出した。
メッセージを送るか迷って――でも、やっぱりやめた。
――今日は、余韻のまま帰ろう。
画面を伏せて、穂花はホームに入ってきた電車に乗り込んだ。