ダイエットなんてできません - 地味系プログラマーとワイルド系SE

第五話 「ライブの余韻」

 月曜日の朝、穂花はPCを立ち上げると、未読メールを一通ずつ処理していった。
 週報の確認、障害情報の周知、業務改善ミーティングの案内……淡々とメール群を片づけ終えると、タスク管理表をざっと見直す。
 レイアウト崩れの件は金曜中に対応済み。なら今のうちに、と年次のセキュリティトレーニングのコースを開いた。
 ――こういうの、毎年変わらないよね。
 パスワード管理、フィッシング対策、テレワーク中の注意事項……最短のタイミングでスクロールし、確認テストに答え、受講済みにして閉じる。
 バックログのリストを確認していたら、いつの間にか昼が近づいていた。

 席を立ち、カフェテリアに向かうと、夏希が手を振っているのが見えた。
 すでにサラダとミネストローネが並んでいるトレーの向かいに、穂花は自分のランチを乗せて腰を下ろした。

「お疲れー。どう? 土曜日の余韻、まだ残ってる?」
 夏希がニヤニヤと笑う。

「……少しだけね」
「うっわ~、その顔、かなり残ってるじゃん。で、どうだったの?」

 穂花は、少しだけスプーンを止めて、小さく笑った。
「かっこよかった……ほんとに。隆二さん、ギター弾いてるとき、全然違う人みたいだった」
「えっ、どっちの意味? 悪い方じゃないよね?」
「ううん。良い方。普段ももちろん素敵だけど、ステージに立ってると、もう目が離せなくて……」
「ふーん、なるほどねぇ。穂花って、もっとお淑やかな恋愛をするタイプかと思ってたけど、意外とこういうのに惹かれるんだ」
「わ、何その言い方……」
 思わず頬が熱くなる。

「で、帰りは? どこまで一緒だったの?」
「南口の改札まで。一緒にライブハウスから歩いて……その、ちょっと話して」
「ちょっとってどれくらい? 手くらいつなげた?どっちから手、出した?」
「な、なに言ってるのよっ! 手なんか、出してないから!」
 声が上ずり、慌てて声をひそめた。

 夏希はにやにやしたまま、パンをちぎって口に運ぶ。
「でもさ、ちゃんと見てくれてるでしょ? 穂花のこと」
「……うん。そう思いたいな」

 ――ステージの上の隆二さんも、日常の中で笑ってくれる隆二さんも。
 どちらも知って、もっと好きになってしまった。

「次は、どこか行こうって言ってくれたの」
 それを口に出すと、なんだか本当に特別なことのように思えた。

 夏希は、フォークを置いてふっと微笑む。
「行ってよかったね。ちゃんと、自分の目で見て、感じて。……すごく大事なことだと思うよ」

 穂花の胸に、じんわりと何かが染み渡っていく。
「よしよし。じゃあ、次はデート服の作戦会議だね」
 夏希が笑顔でウインクする。

 穂花も、つられて小さく笑った。
 胸の奥にあたたかい火が、まだ灯り続けている気がした。

   ◇◇

 午後。
 昼の雑談モードから気持ちを切り替え、穂花は再び席に戻ってバックログリストを開いた。
 法人ポータルのリンク整理、入力エラーのポップアップ表示、支店別業績レポートのフォーマット改善――いずれも小規模な対応だが、そもそも優先度が高くなく、バックログに残り続けた案件、順番をどうつけるかが悩ましい。

 システム企画部の担当者にチャットで相談してみた。
《この3件、優先度の確認をお願いできますか?》
《そうですね……西山さんから提案いただけます?》

 隣の席の紗香にチャット画面を見せる。
 紗香は「まあ、そうなるよね」と小さく笑った。
 以前から、あの担当者は判断を現場に委ねるタイプだった。

 とはいえ、根拠と影響範囲を整理して提案しないといけない。

 少し集中力を使いすぎたせいか、頭がモヤっとしてきた。
 いったん切り上げよう、と穂花はマグカップを手に取り、立ち上がる。

 リフレッシュルームに入り、コーヒーマシンのボタンを押していると、背後から声がした。
「お疲れさま」
 振り返ると、紗香が小さめの紙カップを手に持って立っていた。

「紗香さんも休憩ですか?」
「うん。ずっと資料読んでたから、目がしょぼしょぼで」

 二人並んで窓際のカウンター席に腰を下ろす。
 窓の外には、午後の日差しがビルのガラスに反射している。

「穂花ちゃん、なんだか顔が明るいね」
「えっ……そんなこと、ないですよ」
「うそ。土曜日、何かあったでしょ?」
 ――さすが紗香さん。鋭いなあ。

「ちょっと……ライブに行ってきて」
「ライブ?」
「隆二さんが昔やってたバンドの、急きょ出演したライブで」
「へぇ。なんか意外。隆二さんって、どっちかっていうとストイックな人に見えるから」
「ステージの上だと全然違って、すごくかっこよくて……」
 そこまで言って、穂花は恥ずかしくなり、コーヒーを一口飲んだ。

「なるほど。それで今日はちょっと浮かれてるわけだ」
 紗香がにっこり笑う。
「う、浮かれてないです」
「ふふっ。でも、いいことじゃない。顔に出るって。大人になると、嬉しいことを隠すのがクセになっちゃうけど……好きって気持ち、出していいんじゃない?」

 その言葉に、心の奥がふっと軽くなった。

「はい。……そうですね」
「じゃ、いい提案書けそうね?」
「……はい!」
 頷いた穂花の顔に、自然と笑みが浮かんでいた。
 
 コーヒーの温かさと、紗香のやさしい言葉が、午後の空気に静かに溶けていった。
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