ダイエットなんてできません - 地味系プログラマーとワイルド系SE

第四話 「ダイエットなんてできません」

 7月最後の月曜日。
 オフィスを出て、穂花と隆二は並んで代々木駅へと向かって歩いていた。

 空はまだほんのり明るく、街路樹の間を抜ける風に、ツクツクボウシの声が混じる。夏の終わりが、ほんの少しだけ近づいてきているような、そんな夕暮れだった。

「今日は意外と涼しいね」
 穂花がつぶやくと、隆二が空を見上げながら頷いた。

「うん。これくらいの気温がずっと続いてくれたら、夏も悪くないんだけどな」

 駅までの道をゆったりと歩いていたとき、隆二がふと口を開いた。

「また、溜池山王のビストロに行きたいな。今度はディナーで」
 その言葉に、穂花の足が少しだけ止まりかけた。

「……あのときの?」
「うん。最初にふたりだけで行ったあの店。デザート、まだ覚えてる?」

「ワゴンにいっぱい並んでたやつね。……もちろん、覚えてるよ。美味しかったし……すごく、緊張してた」
 穂花は思わず笑った。

「俺も。今思えば、あれが“はじまり”だったなって」
「……でも、私、いちおう今、ダイエット中だから……」
 少しだけ視線をそらして言ってみる。

「はいはい、出た。“一応”ね」
 隆二は笑ってスマホを取り出した。

「今週末、空いてる?」
「うん……空いてる」
「じゃあ決まり、予約するね」

 手際よくアプリで予約を入れる彼の横顔を見ながら、穂花は小さく息を吐いた。

 ――また、あの店に行くんだ。今度は、あの頃とは少し違う自分で。

 駅に近づくにつれて、あたりは徐々に暮れなずみ始めていた。
 街の灯が、少しずつ穂花の足元にやさしく差し込んでくる。

   ◇◇

 土曜の午後、8月の蒸し暑い空気を抜けて、穂花と隆二は再び溜池山王のビストロに足を踏み入れた。あのときのワゴンデザートの思い出が、胸の奥で甘く揺れていた。

 白いクロスがかけられた小さなテーブルに着席すると、ホールスタッフがメニューを持ってきた。
「前菜とメインを各一品、お選びください。お決まりになりましたらお声がけください」

「ワゴンデザート、ディナーには追加でアイスもつくらしいよ」
 隆二がニッと笑いながら言う。

 穂花は前菜に生ハムと彩り野菜のメリメロサラダ、メインに“本日のお魚料理”を選んだ。
 隆二は前菜にパテ・ド・カンパーニュ、メインには濃厚な肉料理をチョイス。

 柔らかな燭台の灯り。揃えられたシルバーは静かに光を反射し、食事が運ばれてくる前の時間が、ほんの少し長く感じられる。

 前菜が届くと、まず一口ずつ。
「やっぱり、ここ美味しい……」穂花の声には、笑みが混じっていた。
「ね。特別な日の味だよね」と隆二。

 メインも、しっとりとした魚と優しいソースの組み合わせに穂花は迷わず頷き、隆二は肉のジューシーさに満足そうだ。

   ◇◇

 食事を終えるころ、ワゴンが静かに現れる。
 
 クレームブリュレ、カボチャプリン、マンゴータルト、メロンのムースケーキ、バスクチーズケーキ、そしてガトーショコラ。彩りと甘さの宝石箱がテーブルの横に並んだ。アイスは、バニラ、抹茶、チョコ。

 穂花は思わず息を漏らしながら、クレームブリュレとマンゴータルトを指さす。アイスはバニラを選択。

 フォークで表面のキャラメリゼを割り、とろけるカスタードをすくい取る。一口運ぶとふわりとラム酒の香り。
「……幸せ」
 自然とこぼれる声に、隆二が微笑む。

――ダイエットなんて、やっぱりできません……

 彼の横顔をそっと見つめながら、穂花は胸の奥で震えるものを感じていた。

 デザートの最後の一口を口に運ぶと、小さな満足が体中を満たしていった。

   ◇◇

 店を出たふたりは、ほんのり涼しい夜風の中、日枝神社方向へ歩き始めた。
 三人ほどの人影が見えるだけの静かな夜道。月明かりが照らす参道を抜け、山王橋をエスカレーターで上る。

 隆二がそっと穂花の肩に腕を回した。そのまま身を預けると、彼の厚い胸の温かさを頬に感じた。

 眼下には、夜の赤坂の街並み。風に混じって遠くから車の音がし、ビルの灯りが瞬いている。

 穂花は目を閉じて、心の中で囁いた。
 ――仕事も、恋も、ここまで来た。
 ――甘いものも、自分を大切にしてくれる彼との時間も。
 たぶん、この瞬間が、一番幸せ。

 小さな夜景を見下ろしながら、穂花はそっと笑った。

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