ダイエットなんてできません - 地味系プログラマーとワイルド系SE

第三話 「コスメカウンタ」

 金曜日の夕方。定時で退勤した穂花は、上条紗香と連れ立って新宿の百貨店に向かっていた。

「ちょっと緊張してきました……」
 エントランスを抜けたとき、穂花は小声で言った。

「大丈夫よ。いきなりフルメイクされるわけじゃないし、あくまで“お試し”だから」
 紗香は落ち着いた笑みでそう答えると、慣れた足取りで化粧品フロアへと進んでいく。

 そこは、柔らかな照明と甘い香りに包まれた、まるで異世界のような空間だった。スーツ姿の自分が、なんだか場違いな気すらして、穂花はやや緊張気味に歩を進める。

「こんにちは。今日はどのようなご相談でしょうか?」
 カウンターに着くと、白衣姿の美容部員がにこやかに迎えてくれた。肌も瞳も輝いていて、まるでモデルのようだった。

「彼女がちょっとだけ、イメチェンしたくて。ナチュラルで、少し大人っぽくなる感じでお願いできますか?」
「かしこまりました」
 美容部員は穂花の顔をじっと見つめ、ふんわりと微笑んだ。

 慣れた動作で、BBクリームと眉を落とす。

「お肌、きれいですね。すっぴんでも透明感があるから、仕上がりはとても自然になると思いますよ」

 ――すっぴんでも、透明感。
 そんなふうに言われたのは、初めてだった。

「じゃあ、まずは下地からいきましょう。お肌の赤みをほんの少し整えるだけで、グッと印象が変わりますからね」

 頬に柔らかな筆が当たり、リキッドが肌になじんでいく感触。続けて、眉の形を少し整え、まぶたにうすくベージュのシャドウがのせられる。

「目元はあえて薄めに。口紅は、このピンクベージュがおすすめです。血色がよく見えて、優しい印象になりますよ」
「……わ、すごい。なんか、いつもと違う……」

 鏡の中の自分を見て、思わず言葉がこぼれた。
 メイクはあくまで自然。でも、たしかに何かが変わっていた。

「ほんと、似合ってる」
 紗香が横で頷く。
「これなら、明日きっと楽しい一日になるわ」

   ◇◇

 夜の自室。メイクを落とし、机の前に座った穂花は、卓上ミラーと、紙袋から取り出したコスメたちを並べていた。

 ベース、パウダー、アイブロウ、アイシャドウ……そして、あのとき勧められたピンクベージュのリップ。
 慣れない化粧品を前にして、手元がややおぼつかない。

 ――さっきみたいに、下地は薄く……
 指先に少量を取って、頬にぽんぽんと叩き込む。お店の美容部員が言っていた「赤みを少し抑えるだけで変わりますよ」の言葉を思い出しながら。

 次はアイブロウ。紗香が「眉はほんの少しだけ角度を変えるだけで、印象が優しくなる」と言っていた。
 恐る恐るペンシルを持ち、ゆっくりと眉尻をなぞっていく。

 アイシャドウは、ほとんど見えないくらいの薄い色を、まぶたに軽く。
 リップは、少し緊張しながら、口元に色をのせた。

 仕上げにミラーをしっかり見つめる。
 ――うん。やっぱり、ちょっと違う。

 プロにしてもらったときほどの仕上がりではないけれど、それでも、たしかに「これまでの私」とはどこか違う。
 チークを斜めに入れると頬が引き締まって見え、眉の形だけで、ほんの少しだけ自信がありそうに見える気がした。

「……どうかな」
 小さくつぶやいて、ミラーに向かって笑ってみる。
 ぎこちなかったけれど、鏡の中の自分が、ほんの少しだけ大人びて見えた。

――明日、ちょっとだけ頑張れるかもしれない。

 そんなふうに思えたのは、ずいぶん久しぶりだった。
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