ダイエットなんてできません - 地味系プログラマーとワイルド系SE
第三話 「ビストロ」
水曜日。
穂花の設計作業は順調だった。
隆二に教えてもらったヒストリカルデータとの突き合わせロジックも整理がつき、既存の抽出条件との整合性も検討済み。今日中には、機能仕様まで詰められそうだ。
ふう、とひと息ついて、キャビネットの上にあるお菓子の籠に手を伸ばす――そのとき。
ポケットのスマホが震えた。
画面には、隆二からのメッセージ。
《君と行きたい店があるんだけど、今週末にランチ、一緒にどう》
――えっ。早速デートの誘い?
手の中のクッキーを握りしめたまま、穂花の頭が一瞬フリーズする。
けれど、数秒の迷いのあと、指は自然と動いていた。
《ありがとう。日曜日なら》
《予約しておくから》
穂花は、そっと、元の籠にクッキーを戻した。
◇◇
そして迎えた日曜日。
穂花は朝からそわそわし通しだった。
二人だけで会うのは初めてだ。
どんな服を着て行けばいいのか、何を話せばいいのか――そればかり考えて、時間が過ぎていく。
何度も鏡の前に立ち、悩んだ末に選んだのは、青紫のシンプルなワンピース。
白のジャケットを羽織れば、少しきちんとした印象にもなる。デートだけど、浮かない程度にきちんと。
待ち合わせ場所は、溜池山王駅の改札口。
時間ぴったりに現れた隆二は、黒のテーパードパンツに白のTシャツ、そして藍色の七分袖ジャケットを羽織っていた。
きちんと感があるのに、どこかワイルドな空気をまとっているのは、彼らしいというべきか。
「待たせた?」
「ううん、私も今来たところです」
◇◇
「ここだよ」
連れてこられたのは、路地裏にひっそりと佇む、小さなビストロだった。
無垢の木の開き戸に、控えめな手書きの看板。隠れ家という言葉がぴったりな店構えだ。
「予約した三田村です」
「こちらにどうぞ」
通されたのは、店の中ほどにある壁際のテーブル。白いクロスがかけられた小さなテーブルに、ナイフとフォークが静かに並んでいる。
「ここ、ワゴンデザートがすごいことで有名なんだよ」
隆二が言う。
「ワゴン……デザート……?」
反射的に、穂花の眉がわずかに動いた。
「うん。シェフがデザート部門で賞を取っててさ。メイン食べ終わると、ワゴンに乗った季節のデザートがずらっと来るんだって」
「……」
――わ、私のためにこのお店、選んでくれたのかな。うれしい。
でも……デザート……
先週のケーキ、止められなかったことを思い出す。自分が甘いものが好きなのも、バレてるし。
「素敵ね」
穂花はにっこりと笑って答えた。そう、今日はダイエットのことは忘れよう。少しだけ。
◇◇
そのとき、ホールスタッフがメニューを持って現れた。
「前菜とメインを各一品、お選びください。お決まりになりましたらお声がけください」
差し出されたメニューには、美味しそうな料理の名前が並んでいる。
でも、頭の片隅では――すでに、ワゴンに乗ったデザートの姿が、ふわふわと追いかけてきていた。
二人でメニューを見ながら、しばし沈黙が続いた。
「……前菜、迷いますね」
穂花が先に口を開く。
「このキッシュも美味しそうだけど……カルパッチョも捨てがたい」
「俺、迷わず肉派だけどね。パテ・ド・カンパーニュ一択」
「そういうの、迷わないの羨ましいです」
穂花は笑いながら、結局、彩り野菜のマリネを選んだ。
メインは鶏のバスク風煮込みにした。軽めで、でもしっかり食べられそうな安心感があった。
注文を終えると、ワインリストが差し出されたが、ふたりとも軽く首を振った。
食事だけを、しっかり味わいたかった。
◇◇
料理が運ばれてくる間、店内に流れる穏やかなクラシックに耳を傾ける。
隣のテーブルでは、年配のご夫婦が静かに会話を楽しんでいる。
「穂花さん、仕事早いんだなって、思った」
不意に隆二が言った。
「え……あ、ありがとうございます」
「依頼があったその日のうちに連携データの問題に気づいて連絡してくるなんて」
「……でも、その場で、すぐ回答してくれた三田村さんもすごいです」
穂花は照れくさくなって、フォークの柄をそっと指先で転がす。
「意外だったのは、甘党なとこだけどね」
「えっ、またそれ……」
――私、スリムじゃないし、そんなに意外だろうか。
「でも、そこが人間味あっていいって思った。俺、たぶんそういうギャップに弱いんだよな」
「……」
穂花は顔を伏せたまま、小さく笑った。
――ギャップに、弱い……。
その言葉が、胸の奥に残る。
◇◇
前菜とパンが届き、色鮮やかなマリネに目を奪われる。
酸味とハーブの香りが食欲を誘い、穂花は思わず笑顔になった。
「おいしそう……」
「よかった。ここ、ちょっと特別な日に来たい店だったんだ」
「……特別な、日?」
穂花が顔を上げると、隆二はいたずらっぽく笑った。
「いや、うん。俺にとってはね」
その言葉の意味を深く考える前に、メインディッシュが運ばれてきた。
柔らかく煮込まれた鶏肉と、赤ピーマンや玉ねぎの優しい色合いが、白い皿の上で鮮やかに映える。
穂花は口に運び、驚いたように目を見開いた。
「……おいしい……」
「でしょ?」
しばらくのあいだ、ふたりはただ、料理に集中して食事を楽しんだ。
でも、穂花の頭の片隅には、すでに“ワゴン”の存在が、静かに近づいてきていた。
◇◇
そして――メインを食べ終えたテーブルの前に、音もなくワゴンが現れた。
ブルベリーチーズケーキ、さくらんぼのミルフィーユ、甘夏のブランマンジェ、季節のタルト、ショコラのテリーヌそして、桃のムースケーキ。
彩りと甘さに満ちた宝石たちが、堂々と並んでいる。
「この中から二つお選びください。切り分けますので」
スタッフの声に、思わず息を呑む。
――どうしてこう、いつも甘いものって……こっちを追いかけてくるのかな。
穂花は、にこりと笑って、ミルフィーユとムースケーキを指さした。
ミルフィーユの断面にフォークを入れると、サクサクとした音が小さく響いた。
ムースケーキ、桃の香り。ひと口運んだ瞬間、穂花の表情がぱっと華やいだ。
「……おいしい……なにこれ……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
生地は軽やかに崩れ、クリームは口の中でふわっと溶ける。甘すぎず、でもしっかりと“ご褒美”の味がする。
「さすが、賞を取っただけあるね」
隆二が穂花を見ながら、どこか満足そうに言った。
「これ、ほんとにやばいです……幸せって、こういうことかも」
「それ、キャラメルケーキ食べてたときも言ってたよ」
「う……言ってました……」
恥ずかしそうに頬を染めながら、それでもフォークの動きは止まらない。
隆二は、自分のチョコレートテリーヌを少しずつ口に運びながら、そんな穂花の様子を静かに見守っていた。
その視線には、からかいでも冷やかしでもない、どこかあたたかいものが宿っていた。
◇◇
食後の紅茶まで飲み終え、ふたりはゆっくりと席を立った。
店を出ると、午後の陽射しがゆるやかに街を照らしていた。
「このへん、あんまり歩いたことないかも」
穂花が言うと、隆二は少し考えてから、ふっと顎で向こうを示した。
「じゃあ、少し歩こうか。山王パークタワーのほう、通ってみる?」
「うん……歩きたいです。おなかいっぱいになったし、ちょっと罪滅ぼしに」
「罪……ね。甘いものの?」
「はい。さすがに今日のは、逃げようがないくらい食べちゃいましたから」
そう言いながらも、穂花の表情には後悔より満足が勝っていた。
日曜のオフィス街は、平日ほどの人通りもなく、歩道も静かだった。
山王パークタワーの並木道は、ビルのガラスに光が反射していて、どこか柔らかく感じられる。
ビルの谷間を歩きながら、ふたりの足音だけが心地よく響く。
「なんか、こういう時間、久しぶりかも」
穂花がぽつりとつぶやいた。
「どういう?」
「仕事抜きで、誰かと歩いて、笑って、ケーキ食べて。そんな日曜日」
「……俺も、かもな」
隆二の声は、少しだけ低くて、穏やかだった。
しばらく無言で歩く。けれど、気まずさはなかった。
言葉がなくても、一緒にいられる安心感が、そこには確かにあった。
「次は……アイスとか、どう?」
ふいに隆二が言った。
「また甘いもの……?」
そう言いながら、穂花の口元は笑っていた。
――こんな日が、また来たらいいな。
そう思いながら、ふたりは並んで歩き続けた。
穂花の設計作業は順調だった。
隆二に教えてもらったヒストリカルデータとの突き合わせロジックも整理がつき、既存の抽出条件との整合性も検討済み。今日中には、機能仕様まで詰められそうだ。
ふう、とひと息ついて、キャビネットの上にあるお菓子の籠に手を伸ばす――そのとき。
ポケットのスマホが震えた。
画面には、隆二からのメッセージ。
《君と行きたい店があるんだけど、今週末にランチ、一緒にどう》
――えっ。早速デートの誘い?
手の中のクッキーを握りしめたまま、穂花の頭が一瞬フリーズする。
けれど、数秒の迷いのあと、指は自然と動いていた。
《ありがとう。日曜日なら》
《予約しておくから》
穂花は、そっと、元の籠にクッキーを戻した。
◇◇
そして迎えた日曜日。
穂花は朝からそわそわし通しだった。
二人だけで会うのは初めてだ。
どんな服を着て行けばいいのか、何を話せばいいのか――そればかり考えて、時間が過ぎていく。
何度も鏡の前に立ち、悩んだ末に選んだのは、青紫のシンプルなワンピース。
白のジャケットを羽織れば、少しきちんとした印象にもなる。デートだけど、浮かない程度にきちんと。
待ち合わせ場所は、溜池山王駅の改札口。
時間ぴったりに現れた隆二は、黒のテーパードパンツに白のTシャツ、そして藍色の七分袖ジャケットを羽織っていた。
きちんと感があるのに、どこかワイルドな空気をまとっているのは、彼らしいというべきか。
「待たせた?」
「ううん、私も今来たところです」
◇◇
「ここだよ」
連れてこられたのは、路地裏にひっそりと佇む、小さなビストロだった。
無垢の木の開き戸に、控えめな手書きの看板。隠れ家という言葉がぴったりな店構えだ。
「予約した三田村です」
「こちらにどうぞ」
通されたのは、店の中ほどにある壁際のテーブル。白いクロスがかけられた小さなテーブルに、ナイフとフォークが静かに並んでいる。
「ここ、ワゴンデザートがすごいことで有名なんだよ」
隆二が言う。
「ワゴン……デザート……?」
反射的に、穂花の眉がわずかに動いた。
「うん。シェフがデザート部門で賞を取っててさ。メイン食べ終わると、ワゴンに乗った季節のデザートがずらっと来るんだって」
「……」
――わ、私のためにこのお店、選んでくれたのかな。うれしい。
でも……デザート……
先週のケーキ、止められなかったことを思い出す。自分が甘いものが好きなのも、バレてるし。
「素敵ね」
穂花はにっこりと笑って答えた。そう、今日はダイエットのことは忘れよう。少しだけ。
◇◇
そのとき、ホールスタッフがメニューを持って現れた。
「前菜とメインを各一品、お選びください。お決まりになりましたらお声がけください」
差し出されたメニューには、美味しそうな料理の名前が並んでいる。
でも、頭の片隅では――すでに、ワゴンに乗ったデザートの姿が、ふわふわと追いかけてきていた。
二人でメニューを見ながら、しばし沈黙が続いた。
「……前菜、迷いますね」
穂花が先に口を開く。
「このキッシュも美味しそうだけど……カルパッチョも捨てがたい」
「俺、迷わず肉派だけどね。パテ・ド・カンパーニュ一択」
「そういうの、迷わないの羨ましいです」
穂花は笑いながら、結局、彩り野菜のマリネを選んだ。
メインは鶏のバスク風煮込みにした。軽めで、でもしっかり食べられそうな安心感があった。
注文を終えると、ワインリストが差し出されたが、ふたりとも軽く首を振った。
食事だけを、しっかり味わいたかった。
◇◇
料理が運ばれてくる間、店内に流れる穏やかなクラシックに耳を傾ける。
隣のテーブルでは、年配のご夫婦が静かに会話を楽しんでいる。
「穂花さん、仕事早いんだなって、思った」
不意に隆二が言った。
「え……あ、ありがとうございます」
「依頼があったその日のうちに連携データの問題に気づいて連絡してくるなんて」
「……でも、その場で、すぐ回答してくれた三田村さんもすごいです」
穂花は照れくさくなって、フォークの柄をそっと指先で転がす。
「意外だったのは、甘党なとこだけどね」
「えっ、またそれ……」
――私、スリムじゃないし、そんなに意外だろうか。
「でも、そこが人間味あっていいって思った。俺、たぶんそういうギャップに弱いんだよな」
「……」
穂花は顔を伏せたまま、小さく笑った。
――ギャップに、弱い……。
その言葉が、胸の奥に残る。
◇◇
前菜とパンが届き、色鮮やかなマリネに目を奪われる。
酸味とハーブの香りが食欲を誘い、穂花は思わず笑顔になった。
「おいしそう……」
「よかった。ここ、ちょっと特別な日に来たい店だったんだ」
「……特別な、日?」
穂花が顔を上げると、隆二はいたずらっぽく笑った。
「いや、うん。俺にとってはね」
その言葉の意味を深く考える前に、メインディッシュが運ばれてきた。
柔らかく煮込まれた鶏肉と、赤ピーマンや玉ねぎの優しい色合いが、白い皿の上で鮮やかに映える。
穂花は口に運び、驚いたように目を見開いた。
「……おいしい……」
「でしょ?」
しばらくのあいだ、ふたりはただ、料理に集中して食事を楽しんだ。
でも、穂花の頭の片隅には、すでに“ワゴン”の存在が、静かに近づいてきていた。
◇◇
そして――メインを食べ終えたテーブルの前に、音もなくワゴンが現れた。
ブルベリーチーズケーキ、さくらんぼのミルフィーユ、甘夏のブランマンジェ、季節のタルト、ショコラのテリーヌそして、桃のムースケーキ。
彩りと甘さに満ちた宝石たちが、堂々と並んでいる。
「この中から二つお選びください。切り分けますので」
スタッフの声に、思わず息を呑む。
――どうしてこう、いつも甘いものって……こっちを追いかけてくるのかな。
穂花は、にこりと笑って、ミルフィーユとムースケーキを指さした。
ミルフィーユの断面にフォークを入れると、サクサクとした音が小さく響いた。
ムースケーキ、桃の香り。ひと口運んだ瞬間、穂花の表情がぱっと華やいだ。
「……おいしい……なにこれ……」
思わず、感嘆の声が漏れる。
生地は軽やかに崩れ、クリームは口の中でふわっと溶ける。甘すぎず、でもしっかりと“ご褒美”の味がする。
「さすが、賞を取っただけあるね」
隆二が穂花を見ながら、どこか満足そうに言った。
「これ、ほんとにやばいです……幸せって、こういうことかも」
「それ、キャラメルケーキ食べてたときも言ってたよ」
「う……言ってました……」
恥ずかしそうに頬を染めながら、それでもフォークの動きは止まらない。
隆二は、自分のチョコレートテリーヌを少しずつ口に運びながら、そんな穂花の様子を静かに見守っていた。
その視線には、からかいでも冷やかしでもない、どこかあたたかいものが宿っていた。
◇◇
食後の紅茶まで飲み終え、ふたりはゆっくりと席を立った。
店を出ると、午後の陽射しがゆるやかに街を照らしていた。
「このへん、あんまり歩いたことないかも」
穂花が言うと、隆二は少し考えてから、ふっと顎で向こうを示した。
「じゃあ、少し歩こうか。山王パークタワーのほう、通ってみる?」
「うん……歩きたいです。おなかいっぱいになったし、ちょっと罪滅ぼしに」
「罪……ね。甘いものの?」
「はい。さすがに今日のは、逃げようがないくらい食べちゃいましたから」
そう言いながらも、穂花の表情には後悔より満足が勝っていた。
日曜のオフィス街は、平日ほどの人通りもなく、歩道も静かだった。
山王パークタワーの並木道は、ビルのガラスに光が反射していて、どこか柔らかく感じられる。
ビルの谷間を歩きながら、ふたりの足音だけが心地よく響く。
「なんか、こういう時間、久しぶりかも」
穂花がぽつりとつぶやいた。
「どういう?」
「仕事抜きで、誰かと歩いて、笑って、ケーキ食べて。そんな日曜日」
「……俺も、かもな」
隆二の声は、少しだけ低くて、穏やかだった。
しばらく無言で歩く。けれど、気まずさはなかった。
言葉がなくても、一緒にいられる安心感が、そこには確かにあった。
「次は……アイスとか、どう?」
ふいに隆二が言った。
「また甘いもの……?」
そう言いながら、穂花の口元は笑っていた。
――こんな日が、また来たらいいな。
そう思いながら、ふたりは並んで歩き続けた。