先輩の添い寝係になりました
■第7話:それぞれの事情
「じゃあ、行ってくる!」
響がご機嫌な様子で仕事に行った。
「いってらっしゃい」
瑞音の手の中には合鍵がある。
(なんかまるで夫婦みたい……)
そう思うと心が弾む。
(いやいや、ただの添い寝係だから。早く仕事と住まいを見つけないと!)
自分を叱咤し、瑞音は客間に荷物を広げる。
客間が瑞音の部屋になったのだ。
「クローゼットが大きいからありがたい……」
とりあえず家具を買い足す必要はなさそうだ。
「ふう……」
片付けを終えると、瑞音はリビングに入って窓から外を見る。
「うわあ……」
眼下に広がる東京の街に思わず感嘆の声が漏れる。
「まさかタワマンに住むことになるなんて……」
しかも憧れの先輩と同居だ。
「いいのかな……」
しかも生活費もタダだという。
せめて食費だけでも、と食い下がってみたが、「無職の人からもらえないよ」とあっさり言われてしまった。
(正直、すごく助かる……)
自分ができることといえば、家事と添い寝くらい。
いや、響は家事が得意なようなので、添い寝だろう。
睡眠は大事だ。
だから価値がある。
(頑張って、いい眠りにつけるようにしなくちゃ!)
*
その夜、瑞音はドキドキしながら寝室へ向かった。
添い寝係としての仕事、と言い聞かせてみても心臓は高鳴ったままだ。
「ごめん、緊張するよね」
「は、はい」
昨晩とは違い、パジャマ姿というのもある。
「でも、大丈夫です!」
「ほんとごめん。でも、俺も生活がかかってるんだ。よろしく!」
響が手を合わせて、ごろりと横になる。
「お、お邪魔します……」
瑞音はそっとベッドの上に乗った。
(うう……照れくさい……)
(これは仕事、これは仕事……)
瑞音が目を閉じて必死で念じていると、響がごろりと寝返りを打った。
至近距離で目と目が合う。
「来てもらって悪いけど、まだあんまり眠くないな……」
響の言葉に瑞音は強くうなずいた。
「仕事から帰ってきたばかりですから。神経が立っていますよね」
「ちょっと話していい?」
響の真剣な眼差しにドキッとする。
「なんで添い寝を頼むほど眠れないんだろう、って思ってるよね?」
「えっ、あっ、はい……」
気にはなっていたが、友人でもないただの同居人の自分が踏み込んでいいかわからず黙っていた。
「家庭の事情……なんだけど。詳しくは言えないけど、俺は母親に拒否されてて」
「えっ?」
「一切関わりたくない、って言われてるんだ」
「な、なんで……あっ、言えないんですよね」
「ちょっと複雑な事情があって。子どもの頃から母は兄ばかり可愛がって、俺には無関心で……その事情がわかったのが高校生の時で」
「……」
恋愛をする余裕などない、と言っていたのを思い出した。
「その時のことをずっと引きずっているんだ……情けないことに」
「情けなくないですよ! そんなつらい状態で……」
響がフッと微笑む。
「ごめん、重たい話だったよな……」
「いえっ、大丈夫です!」
瑞音はごろりと仰向けになった。
「なんだか夜の空気って不思議ですよね。ちょっと開放的になるというか……いつもなら話せないことも口に出せそうで……」
修学旅行の夜を思い出す。消灯のあとも、同室の子たちといろんな話をした。
「わ、私の話も聞いてもらえますか?」
「うん」
まっすぐな眼差しに怯みつつ、勢いに任せて瑞音は話し出した。
「私は先輩とは逆で……一人っ子だったせいか、母は過干渉で私を思い通りにしたかったみたいで……」
瑞音はごくっと唾を飲み込んだ。
「母はピアニストになりたかったんです。でも、家庭の事情で叶わなくて。私には完璧な環境を与えて、ピアニストにしたかったみたいです」
「瑞音ちゃん、ピアノ弾けるの!?」
響が驚いたように目を見開く。
「はい、それなりに。本当にそこそこなんですよ。実家にはグランドピアノがあって、母はピアノの先生をしていて……そんな恵まれた環境だったんですけど、私は才能がなくて」
子どもの頃からずっとピアノ漬けだった。
目立つのが嫌いで引っ込み思案だった瑞音にとって、ピアノの発表会やコンクールは負担だった。
だが、嫌とは言えなかった。母の目がつり上がるから――。
「母の手前、ピアノは辞められなかった……。音大を目指すよう厳しく言われ、家では地獄でした。だから、学校だけが気を抜ける居場所で……」
「ああ、それで放課後、よく寝ていたのか……」
「寝ているときは忘れられますから……」
皆からもいつも寝ているとからかわれたものだ。
だが、あの時間は今思えば貴重な一人だけの自由な時間だった。
「結局、音大は受けず、母とは決裂。高校を卒業したら上京して就職しました。母から逃げたい一心でした……」
「期待されすぎるのもつらい、か……。実家に居場所がないのは俺と同じだな」
ポン、と頭に手が載せられた。
「よく頑張ったな、ひとりで……」
優しい声に、思わず涙が浮かぶ。
たった一人、心細い思いを抱えて上京したあの日が蘇ってきた。
「すいません……」
静かに涙を流す瑞音の頭を、響はそっと撫でてくれた。
「大丈夫。大丈夫だから」
響の声が優しく波のように繰り返され、瑞音は静かに眠りに落ちていった。
響がご機嫌な様子で仕事に行った。
「いってらっしゃい」
瑞音の手の中には合鍵がある。
(なんかまるで夫婦みたい……)
そう思うと心が弾む。
(いやいや、ただの添い寝係だから。早く仕事と住まいを見つけないと!)
自分を叱咤し、瑞音は客間に荷物を広げる。
客間が瑞音の部屋になったのだ。
「クローゼットが大きいからありがたい……」
とりあえず家具を買い足す必要はなさそうだ。
「ふう……」
片付けを終えると、瑞音はリビングに入って窓から外を見る。
「うわあ……」
眼下に広がる東京の街に思わず感嘆の声が漏れる。
「まさかタワマンに住むことになるなんて……」
しかも憧れの先輩と同居だ。
「いいのかな……」
しかも生活費もタダだという。
せめて食費だけでも、と食い下がってみたが、「無職の人からもらえないよ」とあっさり言われてしまった。
(正直、すごく助かる……)
自分ができることといえば、家事と添い寝くらい。
いや、響は家事が得意なようなので、添い寝だろう。
睡眠は大事だ。
だから価値がある。
(頑張って、いい眠りにつけるようにしなくちゃ!)
*
その夜、瑞音はドキドキしながら寝室へ向かった。
添い寝係としての仕事、と言い聞かせてみても心臓は高鳴ったままだ。
「ごめん、緊張するよね」
「は、はい」
昨晩とは違い、パジャマ姿というのもある。
「でも、大丈夫です!」
「ほんとごめん。でも、俺も生活がかかってるんだ。よろしく!」
響が手を合わせて、ごろりと横になる。
「お、お邪魔します……」
瑞音はそっとベッドの上に乗った。
(うう……照れくさい……)
(これは仕事、これは仕事……)
瑞音が目を閉じて必死で念じていると、響がごろりと寝返りを打った。
至近距離で目と目が合う。
「来てもらって悪いけど、まだあんまり眠くないな……」
響の言葉に瑞音は強くうなずいた。
「仕事から帰ってきたばかりですから。神経が立っていますよね」
「ちょっと話していい?」
響の真剣な眼差しにドキッとする。
「なんで添い寝を頼むほど眠れないんだろう、って思ってるよね?」
「えっ、あっ、はい……」
気にはなっていたが、友人でもないただの同居人の自分が踏み込んでいいかわからず黙っていた。
「家庭の事情……なんだけど。詳しくは言えないけど、俺は母親に拒否されてて」
「えっ?」
「一切関わりたくない、って言われてるんだ」
「な、なんで……あっ、言えないんですよね」
「ちょっと複雑な事情があって。子どもの頃から母は兄ばかり可愛がって、俺には無関心で……その事情がわかったのが高校生の時で」
「……」
恋愛をする余裕などない、と言っていたのを思い出した。
「その時のことをずっと引きずっているんだ……情けないことに」
「情けなくないですよ! そんなつらい状態で……」
響がフッと微笑む。
「ごめん、重たい話だったよな……」
「いえっ、大丈夫です!」
瑞音はごろりと仰向けになった。
「なんだか夜の空気って不思議ですよね。ちょっと開放的になるというか……いつもなら話せないことも口に出せそうで……」
修学旅行の夜を思い出す。消灯のあとも、同室の子たちといろんな話をした。
「わ、私の話も聞いてもらえますか?」
「うん」
まっすぐな眼差しに怯みつつ、勢いに任せて瑞音は話し出した。
「私は先輩とは逆で……一人っ子だったせいか、母は過干渉で私を思い通りにしたかったみたいで……」
瑞音はごくっと唾を飲み込んだ。
「母はピアニストになりたかったんです。でも、家庭の事情で叶わなくて。私には完璧な環境を与えて、ピアニストにしたかったみたいです」
「瑞音ちゃん、ピアノ弾けるの!?」
響が驚いたように目を見開く。
「はい、それなりに。本当にそこそこなんですよ。実家にはグランドピアノがあって、母はピアノの先生をしていて……そんな恵まれた環境だったんですけど、私は才能がなくて」
子どもの頃からずっとピアノ漬けだった。
目立つのが嫌いで引っ込み思案だった瑞音にとって、ピアノの発表会やコンクールは負担だった。
だが、嫌とは言えなかった。母の目がつり上がるから――。
「母の手前、ピアノは辞められなかった……。音大を目指すよう厳しく言われ、家では地獄でした。だから、学校だけが気を抜ける居場所で……」
「ああ、それで放課後、よく寝ていたのか……」
「寝ているときは忘れられますから……」
皆からもいつも寝ているとからかわれたものだ。
だが、あの時間は今思えば貴重な一人だけの自由な時間だった。
「結局、音大は受けず、母とは決裂。高校を卒業したら上京して就職しました。母から逃げたい一心でした……」
「期待されすぎるのもつらい、か……。実家に居場所がないのは俺と同じだな」
ポン、と頭に手が載せられた。
「よく頑張ったな、ひとりで……」
優しい声に、思わず涙が浮かぶ。
たった一人、心細い思いを抱えて上京したあの日が蘇ってきた。
「すいません……」
静かに涙を流す瑞音の頭を、響はそっと撫でてくれた。
「大丈夫。大丈夫だから」
響の声が優しく波のように繰り返され、瑞音は静かに眠りに落ちていった。