先輩の添い寝係になりました
■第8話:ピアノ
翌朝、瑞音はがばっと起き上がった。
あの後、寝落ちしてしまったらしい。
「先輩!?」
ベッドの上には自分一人しかいない。
慌ててリビングに駆け込むと、スポーツウェア姿の響がいた。
「おはよう」
響のすっきりした表情にホッとする。
「すいません、寝落ちしてしまって! 昨晩は寝られました?」
「この通り、よく寝られたよ。清々しくって、5キロほど走ってきたよ」
「えっ……すごい」
「ついでにブーランジェリーに寄ってきた。朝ご飯はパンでいい?」
響がテーブルの上の紙袋に目をやる。
「あっ、はい」
「筋トレ終わってシャワーを浴びたら、目玉焼きとスムージー作るから待ってて」
そう言うと、響が腕立てを始める。
「そうそう、今日は買い物に行かない? 夜までオフなんだ」
「はいっ! あ、でも大丈夫なんですか? 先輩って芸能人だから……」
恋人ではないとはいえ、二人きりで歩いているのはまずいだろう。
「大丈夫。結構バレないんだ」
響がにこりと笑う。
そして、響の言った通りだった。
帽子をかぶり、眼鏡をかけ、耳にはピアス。
ラフな格好をした響は街に溶け込んでいた。
長身でスタイルがいいせいか、たまに女性が振り向いて目で追ってくるくらいだ。
「ほら、気づかない」
「そ、そうなんですかね……」
チラチラ見てくる女性たちの視線が気になってしょうがない。
「堂々としていれば大丈夫だよ」
響は爽やかな好青年役が多い。
そのせいか、あの映画のホストのような格好をしていると、イメージが違って気づかれにくいようだ。
「ファッションって面白いよなあ。全然気持ちが変わる。フォーマルを着ると背筋が伸びるし、こういう格好はリラックスとテンションアップ」
響の足取りが軽い。
「今日は何を買うんですか?」
「ミルクフォームメーカー。カプチーノを家で作ってみたい」
「先輩、コーヒーが好きですもんね……」
響は食後には必ずコーヒーをドリップしていれている。
瑞音もご相伴に預かるが、とても美味しい。
「カフェ店員の役柄の時にハマってね。あー、自分のカフェを開きたい……」
「先輩ならやっていけそうですよね」
そう口にして、瑞音は少し胸がチクリとするのを感じた。
今もまだ、過去に囚われて何をしたいのかわからない自分とは大違いだ。
大型商業施設を歩いて店を冷やかしていると、響が足を止めた。
「おっ、すごいな。グランドピアノだ」
吹き抜けのロビーに漆黒のグランドピアノが置かれている。
「ストリートピアノだって。昼寝ちゃん、何か弾いてみてよ」
「えっ」
響の無邪気な言葉に瑞音は驚いた。
「私が……?」
「昼寝ちゃんのピアノ、聞いてみたいなあ」
響が首を傾げてこちらを見てくる。
色気のある流し目に、ドキッとする。
(あ、ホストモードだ……)
服装のせいか、以前の役柄が降りてきているようだ。
普段の先輩は、こんな甘えた表情をしない。
(ど、どうしよう……)
高校を卒業してから、ピアノには触れないできた。
敢えて避けていたのだ。
(でも……)
六年の時を経て、目の前に鎮座するグランドピアノを見ると指がうずうずした。
(そうだ、私はピアノを弾くのは好きだった……)
弾いてみたい。
胸の奥底からわき上がる衝動に瑞音は驚いた。
こんなにも強い感情を抱くのは久しぶりだった。
「……そばにいてくれますか?」
「もちろん」
響がにこり、と笑う。
相手をとろけさせる笑みだ。
「わかりました」
(先輩と一緒ならば、きっと大丈夫)
瑞音は思い切ってピアノの方へ向かった。
(ブランクがある。きっとうまく指は動かない。だけど――)
(すごく弾きたい!)
瑞音がピアノの目に座ると、買い物客が足を止める。
皆の視線が集まるのがわかる。
途端に手が冷たくなっていく。
「大丈夫?」
手をこすり合わせていると、響がその上から手を重ねてきた。
「えっ」
「寒いの?」
響の大きな手がゴシゴシと自分の手をさする。
カッと頬が赤くなるのを感じた。
響の熱が手に移ってじんわりと温まるのがわかる。
(うう、ダメ……。集中しなきゃ)
「曲……何がいいですか?」
「えっ、リクエストしていいの?」
響が驚いた顔になったが、すぐに口を開いた。
「じゃあ、あの車のCMで使われている曲がいいな。ショパンの――」
「幻想即興曲ですね」
切ないメロディで人気の曲だ。
瑞音も好きでよく弾いていた。
左右で違うリズムを奏でる必要があり、テンポも速いので難曲と言われている。
(でも――好きで何百回と弾いた曲だもの)
瑞音はそっと鍵盤に手を置いた。
鍵盤の感触に心が踊る。
そこからはもう夢中だった。
何かに取り憑かれたかのような集中力で、瑞音はピアノを弾き続けた。
世界にあるのは自分とピアノだけ。
聴衆については意識の外にあった。
「……っ!」
万雷の拍手に瑞音は我に返った。
気づくと曲を弾き終えていたのだ。
あの後、寝落ちしてしまったらしい。
「先輩!?」
ベッドの上には自分一人しかいない。
慌ててリビングに駆け込むと、スポーツウェア姿の響がいた。
「おはよう」
響のすっきりした表情にホッとする。
「すいません、寝落ちしてしまって! 昨晩は寝られました?」
「この通り、よく寝られたよ。清々しくって、5キロほど走ってきたよ」
「えっ……すごい」
「ついでにブーランジェリーに寄ってきた。朝ご飯はパンでいい?」
響がテーブルの上の紙袋に目をやる。
「あっ、はい」
「筋トレ終わってシャワーを浴びたら、目玉焼きとスムージー作るから待ってて」
そう言うと、響が腕立てを始める。
「そうそう、今日は買い物に行かない? 夜までオフなんだ」
「はいっ! あ、でも大丈夫なんですか? 先輩って芸能人だから……」
恋人ではないとはいえ、二人きりで歩いているのはまずいだろう。
「大丈夫。結構バレないんだ」
響がにこりと笑う。
そして、響の言った通りだった。
帽子をかぶり、眼鏡をかけ、耳にはピアス。
ラフな格好をした響は街に溶け込んでいた。
長身でスタイルがいいせいか、たまに女性が振り向いて目で追ってくるくらいだ。
「ほら、気づかない」
「そ、そうなんですかね……」
チラチラ見てくる女性たちの視線が気になってしょうがない。
「堂々としていれば大丈夫だよ」
響は爽やかな好青年役が多い。
そのせいか、あの映画のホストのような格好をしていると、イメージが違って気づかれにくいようだ。
「ファッションって面白いよなあ。全然気持ちが変わる。フォーマルを着ると背筋が伸びるし、こういう格好はリラックスとテンションアップ」
響の足取りが軽い。
「今日は何を買うんですか?」
「ミルクフォームメーカー。カプチーノを家で作ってみたい」
「先輩、コーヒーが好きですもんね……」
響は食後には必ずコーヒーをドリップしていれている。
瑞音もご相伴に預かるが、とても美味しい。
「カフェ店員の役柄の時にハマってね。あー、自分のカフェを開きたい……」
「先輩ならやっていけそうですよね」
そう口にして、瑞音は少し胸がチクリとするのを感じた。
今もまだ、過去に囚われて何をしたいのかわからない自分とは大違いだ。
大型商業施設を歩いて店を冷やかしていると、響が足を止めた。
「おっ、すごいな。グランドピアノだ」
吹き抜けのロビーに漆黒のグランドピアノが置かれている。
「ストリートピアノだって。昼寝ちゃん、何か弾いてみてよ」
「えっ」
響の無邪気な言葉に瑞音は驚いた。
「私が……?」
「昼寝ちゃんのピアノ、聞いてみたいなあ」
響が首を傾げてこちらを見てくる。
色気のある流し目に、ドキッとする。
(あ、ホストモードだ……)
服装のせいか、以前の役柄が降りてきているようだ。
普段の先輩は、こんな甘えた表情をしない。
(ど、どうしよう……)
高校を卒業してから、ピアノには触れないできた。
敢えて避けていたのだ。
(でも……)
六年の時を経て、目の前に鎮座するグランドピアノを見ると指がうずうずした。
(そうだ、私はピアノを弾くのは好きだった……)
弾いてみたい。
胸の奥底からわき上がる衝動に瑞音は驚いた。
こんなにも強い感情を抱くのは久しぶりだった。
「……そばにいてくれますか?」
「もちろん」
響がにこり、と笑う。
相手をとろけさせる笑みだ。
「わかりました」
(先輩と一緒ならば、きっと大丈夫)
瑞音は思い切ってピアノの方へ向かった。
(ブランクがある。きっとうまく指は動かない。だけど――)
(すごく弾きたい!)
瑞音がピアノの目に座ると、買い物客が足を止める。
皆の視線が集まるのがわかる。
途端に手が冷たくなっていく。
「大丈夫?」
手をこすり合わせていると、響がその上から手を重ねてきた。
「えっ」
「寒いの?」
響の大きな手がゴシゴシと自分の手をさする。
カッと頬が赤くなるのを感じた。
響の熱が手に移ってじんわりと温まるのがわかる。
(うう、ダメ……。集中しなきゃ)
「曲……何がいいですか?」
「えっ、リクエストしていいの?」
響が驚いた顔になったが、すぐに口を開いた。
「じゃあ、あの車のCMで使われている曲がいいな。ショパンの――」
「幻想即興曲ですね」
切ないメロディで人気の曲だ。
瑞音も好きでよく弾いていた。
左右で違うリズムを奏でる必要があり、テンポも速いので難曲と言われている。
(でも――好きで何百回と弾いた曲だもの)
瑞音はそっと鍵盤に手を置いた。
鍵盤の感触に心が踊る。
そこからはもう夢中だった。
何かに取り憑かれたかのような集中力で、瑞音はピアノを弾き続けた。
世界にあるのは自分とピアノだけ。
聴衆については意識の外にあった。
「……っ!」
万雷の拍手に瑞音は我に返った。
気づくと曲を弾き終えていたのだ。