先輩の添い寝係になりました

■第9話:ストーカー

「私……」

 (かたわ)らの(きょう)を見上げると、興奮した様子で手を叩いていた。

「すごいよ、昼寝ちゃん!」

 掛け値無しの賞賛に、瑞音(みずね)はようやくホッと肩の力を抜いた。

「最高の演奏だった!」

 喜んでもらえたのなら何よりだ。

(でも不思議……)

 最初は弾くことすら怖かったというのに、気づくと演奏のことしか考えていなかった。

「少しわかった気がします」
「何が?」

 立ち上がり、歩きながら瑞音は振り返った。

「先輩の言う、憑依(ひょうい)、ってやつです」
「気持ちいいでしょ?」

 響がニヤッと笑う。

(不思議……現役を離れてこんな感覚を味わえるなんて)
(このブランクが私には必要だったのかもしれない)

 またピアノが弾きたい――素直にそう思える。
 響にそう伝えようとした時だった。

「瑞音!」

 一番聞きたくない声がした。
 人混みの中から現れたのは若い細身の青年――松岡(まつおか)洋一(よういち)だった。
 以前働いてた会社の社長の息子で、瑞音にしつこく交際を迫った挙げ句、家まで押しかけてきたストーカーだ。

「ようやく見つけた!」

 洋一はずかずかと近づいてくる。
 瑞音は恐怖で声も出なかった。

「会社は辞めるし、マンションは引き払ってるし――」

 洋一が首を傾げる。

「ずっと探していたんだ。話をしよう、瑞音」

(呼び捨てにしないで、話なんかありません)

 そう言いたいのに、喉に石が詰まったかのように声が出ない。
 パニックに陥りかけたとき、すっと響が瑞音の隣に進み出た。

「気安く名前で呼ぶの、やめてくれるかな?」

 この声音――瑞音は映画を思い出した。
 あの主役のホストの声だ。

 いつもの響とは違う、甘ったるい、だけどどこか危険な香りのする声――。
 長身の響の出現に、洋一があからさまに戸惑った顔をする。

「瑞音は俺の女だから」

 そっと肩に手が回される。

「近づくとタダじゃすまさないよ?」
「な、なんだおまえっ……」

 (ひる)みながらも食い下がろうとする洋一を、響が冷ややかに見下ろす。

「だーかーら、瑞音に近づいたらブチのめす、って言ってんの」

 響がすっと手を延ばすと、洋一の(ひたい)を指で(はじ)く。

「いてっ!」
「二度と瑞音の前に現れるんじゃねえぞ、ストーカー野郎」

 低く押し殺した声には、明確な殺意が含まれていた。
 洋一も気づいたのか、顔を強張らせている。
 下手に刃向かうと殺されるかもしれない――そんな緊張を(はら)んだ声だった。

「いくぞ、瑞音」
「は、はい……っ!」

 力強い手に押されるようにして、瑞音は歩き出した。
 洋一は追ってこなかった。
 商業施設から出ると、そっと肩から手が離れた。

「大丈夫?」

 響が顔を覗き込んでくる。
 その表情も声も、いつもの響だ。

「は、はい」
「あれが例のストーカーだよね? しっかり脅しといたからもう来ないと思うけど……」
「すごい迫力でしたね。あれってホスト役の……」
「うん。あの役に一瞬に戻れたよ。無敵の悪役ってやっぱり強いよなー」

 響がにやっと笑う。

「でも、ヒヤヒヤしました……」

 洋一は瑞音にとって理屈の通じない相手だ。
 刺激したら、どんな行動を取るのかわからない。

「大丈夫大丈夫。今、鍛えてるし。次の役もアクションが必要でさ。格闘技を週に三回習ってるから。フェイントからのボディブローとか得意よ、俺」
「ダメですよ……! 仕事に差し障ります!」

 自分のせいで暴力事件など、とても申し訳なさすぎる。

「昼寝ちゃんを守るためならそれくらいやるよ」

 響が屈託なく笑う。
 瑞音は思わず涙ぐみそうになった。

「ありがとうございます……」
「さ、お茶でもして帰るか。昼寝ちゃんは何か行きたい店ある?」

 何事もなかったかのように笑う響に、瑞音は微笑み返した。
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