しつこいくらい、甘えてもいい?

第1話


「人に甘えるってこと、知らないだろ?」
 その一言に、心臓が飛び跳ねた。
 平日の21時過ぎ。
 静まり返ったオフィスの隅で、私はただひとり、ノートパソコンと向き合っていたはずだったのに。
「……そんなことないです」
 画面から目を離さないまま、私は平静を装う。
 彼は私の反応なんてお見通しだというように、ゆっくりと歩み寄ってきた。
 隣の部署の課長、瀬戸(せと)俊貴(としたか)さん。
 いつも元気で明るくて、余裕のある先輩だ。
 とはいえ、部署が違うこともあり、仕事上の接点はほとんどない。
 それなのに、どうしてか私にだけ、やたらと距離が近い。
「ふーん」
 瀬戸さんは私の頭に、そっと手を置く。
 前髪に指を滑り込ませ、軽くかきあげた。
「……そんな顔、俺以外に見せんなよ」
 その言葉に、ぐっと息が詰まる。
「か、顔……?」
 慌ててモニターに映った自分の顔を確認しようとして、パソコンに顔を向ける。瀬戸さんは手を引っ込めて、クスッと軽く笑った。
「前から言っているだろ。お前、ほんと素直じゃないって。たまにはさ、素直に甘えてみればいいのに」
「……」
 余裕たっぷりなその笑みが、ほんとうにずるい。
 毎回、ただからかわれているだけだと、わかっているのに。
 なのに、どうして私は、こんなにも心臓が……。
「ほら、もう帰るところだろ? 送ってく」
「え、いいです。大丈夫です。自分で帰れるので」
「うん、そう言うと思った」
 彼は私の言葉を、あっさりと流す。
 肩に掛けていた鞄を持ち直した瀬戸さんは、なぜかポケットから自身のスマホを出して、私のデスクに置いた。
「じゃあ、俺は先に行くから。もしお前が〝俺に甘えてみよう〟って思ったら、ちゃんと来いよ」
「あ……ちょっと!」
「たまには、素直になってみろよな」
「……っ」
 私の心臓が、また跳ねる。
 瀬戸さんは、そのまま私の反応も待たずに、ほんとうに歩き出した。
 足音が遠ざかるたび、心臓の音だけがやけに大きく響く。
 ——どうするの、私。
 甘えるなんて、そんなの私にはできない。
 ずっとひとりで頑張るって、決めているのに。
 瀬戸さんは、ただ私をからかっているだけかもしれないのに。
 だけど……目の前に残された瀬戸さんのスマホが気になる。
 こんなもの、私の元に置いて行かれても困るのだ。
「……」
 私は慌てて鞄を掴んで、立ち上がった。
 そして急いでオフィスを施錠して、瀬戸さんが向かった方に走る。
「……待ってください!」
 もう、いないと思っていた。
 それなのに、廊下の角を曲がった先に、瀬戸さんの姿が見える。
 エレベーターホールで、彼はまるで待っていたかのように振り返った。
「甘えたくなった?」
「ち……違います。スマホなんて置いて行かれても困るんです」
 私の手に握られたスマホを見て、瀬戸さんは小さく笑った。
「私を試しましたよね」
「え、何が?」
 とぼけた顔が余裕たっぷりで、ほんとうにずるい。
 そういう瀬戸さんのせいで、私の調子も狂う。
「……まぁ、いいです。はい、返します」
「ありがと」
 スマホを手渡した瞬間、彼の指先が、私の手にそっと触れた。
 その声が、心臓に直接響く。
 私はごまかすように顔をそらして、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
 彼は当然のようにそう言って、私の返事を待たずにエレベーターに乗る。
「ほら、早く」
「……」
 私は、その手招きに応えるしかなかった。



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