しつこいくらい、甘えてもいい?

第10話


 土曜日の夕方。
 私はまた、瀬戸さんの家にいた。
 あの日から私は、ときどき彼の家を訪れるようになった。
 でも——どうしても、〝完全に慣れる〟ことはできなかった。
 玄関をくぐるとき。
 ソファに座るとき。
 キッチンに立つ瀬戸さんの背中を見つめるとき。
 どこかで、まだ遠慮が残っている。
 甘えるのは、やっぱり簡単ではなかった。
「ほら、座ってろ」
「いえ、手伝います」
 瀬戸さんは、慣れた手つきでキッチンに立つ。
 その横に立とうと体を動かし、隣に並ぶ。けれど、嫌そうな表情をされた。
「いいって、座ってろって」
「でも——」
「しつこいな、お前」
「……」
「いいから、甘えな?」
「……」
 言われるがまま、私はそっとソファに腰を下ろした。
 キッチンから聞こえる、包丁の音。
 ぐつぐつと沸く鍋の音。
 生活音が、いつもよりやけに優しく聞こえた。
 でも、心の奥にはまだ引っかかっている。
 ほんとうに私は、ちゃんと甘えられているのだろうか。
「……」
 ふと、瀬戸さんが私を見た。
 その目に、心臓が大きく飛び跳ねる。
「黒木」
「……はい」
「お前、誰かに何かをしてもらう状況、まだ苦手だろ」
「……はい」
「だろうな」
 瀬戸さんは、手に菜箸を持ったまま、軽く笑う。
 温かい笑顔に、胸が締め付けられた。
「でも、これが甘えなんだよ」
「……」
「作ってもらったものを、素直に美味しく食べる。それが、ひとつの甘えるってことだ」
「……」
「だから、今日もちゃんと、しつこいくらい甘えとけって」
 そう言ってキッチンの方を向いた瀬戸さん。私はその背中を静かに見つめた。
 彼は、いつも冗談みたいに軽く言うけれど。
 私は——その言葉の奥にある〝本音〟を、きちんと理解している。
「……じゃあ、しつこいくらい甘えます」
「おぉ、言ったな?」
「でも……ほんとうに、しつこくなりますよ」
「いいよ」
 またこちらを向いた瀬戸さんは、ほんとうに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「さて、今日は具沢山の味噌汁だ」
「味噌汁……ですか?」
 瀬戸さんは食卓テーブルに味噌汁を並べながら、私に向かって手招きをする。
 そして椅子に座るよう促しながら、瀬戸さんは私の肩を軽く叩いた。
「お前、最近インスタントばっかり食べてるって顔してる」
「そんな顔……ありますか?」
「ある」
「どんな顔ですか?」
「……むくんだ顔」
「……」
 無言で瀬戸さんを見つめる。
 しばらく黙ったまま顔を見つめ続けていると、瀬戸さんは観念したかのように大笑いをした。
「はぁ……黒木、嘘だよ」
「……」
「ほんとうは、寂しそうな顔」
 その言葉に、今度は胸がすこしだけ痛くなる。
 瀬戸さんはそう言ったあと、すぐにまた笑ったけれど。きっとこれも、私をほんとうに見てくれているからこその、言葉だと思った。
「まぁほら、食べなって」
 私に向かって、味噌汁を差し出す。
 あたたかくて。
 いい香りがして。
 私のために作ってくれた。たったそれだけのことが——すごく、嬉しかった。
「……瀬戸さん」
「ん?」
「ほんとうに、甘えてもいいんですか?」
「え、まだ言う? 何回言わせんの?」
 瀬戸さんは腕を伸ばし、私の頭をゆっくり撫でる。
 優しい手つきに、気持ちよさまで覚えた。
「しつこいくらい、甘えてこい」
「……わかりました。しつこいくらい、甘えます」
「うん」
 私は、そっと味噌汁を一口飲んだ。
 ふわっと広がる優しい味に、思わず胸が詰まる。
「……美味しいです」
「だろ」
 瀬戸さんは、いつもと同じ笑顔だった。
 安心したように、瀬戸さんは頷く。
 でも——私はひとつ、どうしても聞いておきたいことがあった。
「……瀬戸さん」
「ん?」
「瀬戸さんは……怖くないですか?」
「え?」
「私がしつこく甘えること、ほんとうは……怖くないですか?」
「……」
 私は、ずっと気になっていた。
 私ばっかりが甘えて、素直になって——それって、ほんとうに瀬戸さんにとっても心地よいものなのか。
 そんな心配を、ひそかにしていた。
「……俺」
 瀬戸さんは、ゆっくりと口を開く。
 そして真顔で……呟いた。
「ほんとうは、怖いよ」
「……」
「黒木に甘えられると嬉しいし、俺は間違いなく——お前のことが好きだ。だけど、この気持ちを認めることが、怖い」
 彼の声が、震えていた。
 新鮮で、特別に思えて、なんだか私にとってその声が、すごく、すごく愛おしかった。
「でも、黒木がしつこく甘えてくるの、ほんとうに嬉しいんだ」
 瀬戸さんは笑いながら、でもその目は本気だった。
「だから、俺も逃げない。俺も、お前に甘える」
 私の心臓が、大きく跳ねる。
 彼の目に、冗談はもう——ひとつもなかった。
「だからお前も、しつこいくらい甘えてこい。全部、受け止める」
「……私も、受け止めます」
「うん」
「そして……甘えます」
「うん。もっとしつこく」
「もっと?」
「もっと」
 瀬戸さんは、ふわりと私の頭を撫でて、すっと顔を寄せる。
 耳元で、優しく囁いた。
「黒木、お前のことが好きだよ」
「……私も、好きです」
 頬が、すこしだけ赤くなる。
 でも、もう逃げる理由はなかった。
「だから、しつこいくらい、甘えてこい」
「……尽力します」
「何それ」
 私たちは目を見合って、小さく笑った。
 そして瀬戸さんはキッチンに戻り、他の料理を並べ始める。
 彼の背中。
 皿が重なる音。
 あたたかい味噌汁の香り。
 それらすべてが、胸にじんわりと沁みる。
「……」
 私は、味噌汁のお椀を、そっと両手で包み込んだ。
 まずは、一歩。
 瀬戸さんに、甘える。
 ——いずれ、もっといろんな人にも、素直になれるように。
 そう思いながら私は、あたたかい味噌汁を、もう一口、静かに飲んだ。







しつこいくらい、甘えてもいい?  終




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