しつこいくらい、甘えてもいい?

第4話


 まさか、ほんとうに瀬戸さんの家に行くことになるなんて、思ってもいなかった。
 マンションの7階。
 案内された部屋は、想像以上に綺麗だった。
 無駄なものはないのに、どこかあたたかい空気が漂っている。
 整った家具、よく磨かれたキッチン、漂う洗剤の匂い。
 私の部屋とは、まるで違う。
 一人暮らしの部屋なのに、どこか——温度がある気がした。
「……意外です」
「何が?」
「もっとこう、〝これぞ、男の一人暮らし〟って感じかと思ってました」
「失礼だな。俺、家事とか結構好きなんだよ」
 彼は、当然のようにキッチンに向かう。
 動きがやけにスムーズで、彼の生活に、この空間がしっかり馴染んでいることがよくわかった。
「座ってろ」
「え、私も手伝います」
「いいから」
「でも——」
「しつこい」
 あっさりと封じられた私は、大人しくソファに座るしかなかった。
 瀬戸さんはホットケーキミックスを取り出して、流れるような手つきで準備を始める。
 慣れた手の動きを、じっと見つめてしまった。
「……こういうの、得意なんですか?」
「得意」
「ほんとですか?」
「ほんと」
「……嘘っぽいです」
「その発言、あとで撤回させてやる」
 彼は、クスッと笑いながらホットケーキを焼き始めた。
 キッチンからふわりと広がる甘い香り。
 部屋のあたたかさと、瀬戸さんの優しい声が、私の心の緊張をゆっくりと溶かしていく気がする。
「甘え方、教えるって言っただろ」
「……」
 私はごまかすように視線を落とす。
 甘え方なんて、とうの昔に忘れた。
 私はもう……忘れたままでもよかったのに。
 そんな思いすら、私の中から消えそうになっていた。
「甘えるっていうのは、こういうこと」
 彼は私の方をちらりと見て、軽く笑う。
「人の家に来て、座って、出されたものを食べる」
「……それだけですか」
「そう。これが、甘える」
 笑いながらも、動かす手は止めない。
 焼きあがったホットケーキを、お皿に乗せていた。
「俺のは、普通」
「……?」
「黒木のは、特別」
「え?」
 彼が差し出したお皿には、バターとメープルシロップが丁寧にかけられた、ふわふわのホットケーキが乗っていた。
 さらに、ホイップクリームと、スライスされた苺が綺麗に添えられている。
「お前、たぶん、ちゃんと甘いものを〝甘い〟って思いながら食べたことないだろ」
「それは……」
「食事もそう。いつも忙しそうで、いつもひとりで、いつも味なんてどうでもよさそうに食べてるから」
「……」
 いつ、見られていたのだろう。
 仕事をしながらご飯を食べる私は、昼休みもずっとデスクにいる。
 その間、気づかないうちに見られていたというだろうか。
「甘えるって、簡単なことなんだよ」
 椅子に腰を下ろした瀬戸さんは、ホットケーキをナイフで切りながら、静かに言った。
「俺んちに来て、何もせずに、出されたものを食べる」
「……」
「これが、俺に甘えるってこと」
「……甘えるの、怖いんです」
 瀬戸さんの優しい笑顔と言葉が、胸に染みる。
 私はつい……本音を漏らしてしまった。
「甘えるのが怖いから、甘え方も忘れてしまって……ほんとうはもう、忘れたままでいいんです」
「そっか」
 彼は、あっさりと笑う。
 そして、ホットケーキを頬張ったあと、また軽く笑った。
「でもさ、怖いのとやらないのは違うだろ」
「……」
「じゃあ、練習」
「練習……?」
「ほら、食べな? 冷めないうちに、一緒に食べよう」
「……はい」
 ナイフとフォークを手に取り、ホットケーキを切り分けて口に運ぶ。
 一口食べた瞬間、ふわりとした甘さが舌に広がる。
 しっとりとやわらかくて、ちゃんと温かい。
 さっきまですこしこわばっていた胸の奥が、じんわりと、ゆっくりとほどけていく気がする。
「……美味しいです」
「だろ」
「ほんとに……美味しい」
「一緒に食べると、ちゃんと甘いだろ?」
「……甘いです」
 その言葉を口にしたとき、すこしだけ喉の奥が詰まりそうになった。
「ははっ。それが、俺に甘えるってこと。ひとつ覚えたね」
「……」
 甘え。私、たぶん——今は素直に、瀬戸さんに甘えている。
 忘れていた感情に、懐かしさすら覚えていた。
 そのくらい、人に甘えるってことが最近はなかった。
「……ありがとうございます」
 ぽつりと、自然に出たその言葉に、瀬戸さんはいつもの軽い調子で「ん」とだけ返す。
 その空気が、すごく居心地よく思えてしまった。

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