しつこいくらい、甘えてもいい?
第5話
週が明けた月曜日。
私はいつも通り、パソコンに向かっていた。
土曜日のことは、もう終わったこと。
瀬戸さんの家に行ったことも、ホットケーキを食べたことも、記憶から消し去っていた。
先輩と後輩。
それ以上でも、それ以下でもない。
会社にいる限り、私はその距離感を守る。
——そんなふうに、頭の中では整理していたつもりだった。
仕事の合間、コーヒーを淹れようと思い立ち、いつも通りマグカップを持ってオフィスを出る。
給湯室に向かうと、すでに二人の女性社員が、楽しそうに話をしていた。
「あ、黒木さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
私も軽く会釈を返す。
ごく普通の一コマ。
なんでもない、いつも通りの日常——のはずだった。
「……あの、黒木さんって、瀬戸さんと仲良いですよね」
その女性社員とは、会話をしたことがない。
突然話を振られて、私は思わず手を止めた。
「え……?」
コーヒーメーカーが稼働する音だけが、給湯室内に響く。
うるさい心臓の音は……誰にも聞こえていないはずだと信じたかった。
「いや、ほら、たまに一緒に帰宅してますよね。遅い時間に」
「……」
「私も遅くなることがあって、お二人を見かけることがあるんです」
彼女たちは、悪気なく笑っている。
私も同じように笑うので精一杯だった。
「……まぁ、部署が隣同士ですから」
「ですよね。ふふ、変なこと聞いてすみません。つい、気になっちゃって」
そう言って二人は私から視線を逸らした。
手元のカップに視線を落としながら、私は静かに息を吐く。
きっと大丈夫。これはたぶん、ほんとうにたまたまだから。
「でもさぁ、瀬戸さんって仕事できるし、余裕あるし、落ち着いているし……かっこいいよね」
「わかる。めっちゃモテそうなのに、なんで独身なんだろうね?」
「……」
マグカップを持とうとした手が、ほんのすこしだけ止まった。
これは別に、私には関係ない話だ。
そう思うのに、耳だけが勝手にそちらに向かってしまう。
「……瀬戸さんって昔、社内でちょっと……こじれたことがあったって話、聞いたことない? それがおそらく、独身の理由なんだけど」
不意に、心臓が跳ねた。
女性社員の声が、やけに大きく響く気がする。
「え、知らない。何それ?」
「前に先輩から聞いたことがあって。結構前らしいんだけど、社内恋愛してたみたい」
カップの縁から、ほんのすこしだけコーヒーが零れた。
それに気づいているのに、私の体は動かない。
「相手が急に異動になったとかで……なんか最後、あんまり綺麗に終わらなかったみたいよ」
……知らない事実に、思わず目を見開いてしまう。
知らなかった。
そんな話、これまでに聞いたことがなかった。
「瀬戸さんと1回だけ、飲み会で一緒になったことがあるけど、なんか、本気で人を好きになるのが怖いって言ってた気がする」
「えー意外。でも見た目が軽そうに見えるから、本気でも遊びでも、女の子には困らなさそうだけどね」
「見た目はね。でも実は慎重で……とか。そういうギャップも、なかなか悪くないね」
私は、スティックシュガーをゆっくりと混ぜながら、わざと聞いてないふりをする。
でも、どうしても耳が勝手に拾ってしまうのだ。
音を塞ぎたいのに、彼女たちの声は、まっすぐ心の奥に刺さってくる。
たぶんこれは、どこにでもある社内の噂話。
だけど私には……なぜだかそれが、大変重たく感じた。
「あ、黒木さん、すみません。私たち、つい喋りすぎちゃって」
「……いえ」
私はいつも通りの顔で、笑って答えた。
彼女たちは、軽く会釈をして、笑いながら給湯室を出て行く。
残された私は、すこしずつ冷め始めたコーヒーを見つめた。
ほんとうに、たまたま。
ただの、噂話。
どこまでが事実で、どこからが誰かの想像なのかもわからない。
だけど。
どうして、胸がこんなにもざわつくのか。
『本気で人を好きになるのが怖い』
瀬戸さんの余裕ある笑顔と、冗談ばかりの態度。
人に甘えさせるくせに、ほんとうは——
「……ずるい」
ぽつりと、誰にも届かない声がこぼれる。
なんだか、無性に悔しかった。