しつこいくらい、甘えてもいい?

第9話


 今日もまた、私は残業をしていた。
 いつものように。誰もいな静かなオフィスで、ただひとり、パソコンと向き合う。
 だけど——心は、まったく静かではなかった。
 昼に瀬戸さんと話していたことが、ぐるぐると頭の中を駆け回る。
 避けていることがバレていた。
 でも私は、それを素直に認めることができなかった。
 ……私の心臓は、いまだに落ち着かない。
 認めたくて仕方ないのに、認めるのが怖い。
 でも、どうしても、彼のことが気になってしまう。
 私のことを知りたいなんて言った瀬戸さんの心情を……より詳しく知りたい。
 そう思ってしまう私は、やっぱり瀬戸さんのことが——
「……人に甘えるってこと、知らないだろ?」
 その声が、またオフィスに響いた。
 私は、はっとして振り向く。
 もう、聞き慣れたはずの声。だけど、私の心臓はまた大きく飛び跳ねた。
 そこには、瀬戸さんが立っていた。
 平日の、21時過ぎ。静まり返った、オフィス。
 あの時と、同じだ。
「……そんなことないです」
 私は、瀬戸さんから目線を逸らして、小さく答えた。
 でも、たぶんもう、私の反応なんて全部バレている。
 隠そうとしたって、隠せない。
 誤魔化そうとしたって、誤魔化しきれない。
 彼は、すこしだけ優しそうな笑顔を浮かべて、ゆっくりと私に近づいてきた。
 ……心臓が、うるさい。
 静かなオフィスに、私の呼吸音だけが大きく響いている気がした。
「ふーん」
 瀬戸さんは、私の頭にふわりと手を置いた。
 前髪に指を滑り込ませて、軽くかきあげる。
 あの時と、まったく同じだった。
「……そんな顔、俺以外に見せんなよ」
 息が——詰まる。
 だけど今はもう、あの時とは違う。
 私は、モニターに映った自分の顔を、そっと確認する。
 すると、瀬戸さんは手を引っ込めて、いつものようにクスッと笑った。
「……瀬戸さん」
「ん?」
 私は、ゆっくりと深呼吸をした。
 さっきまで散々誤魔化してきた。けれどもう——その必要はないように思えた。
「……ずるいです」
「……え?」
「瀬戸さんが私に『甘えろ』っていうの、ずるいです」
 私は、ほんとうは彼に伝えたかったことを、すこしずつ言葉にした。
「私は甘えるのが怖いです。それでも瀬戸さんは、甘えさせようとした。でも瀬戸さん自身も、怖いものがあった」
「……」
 瀬戸さんの動きが、ぴたりと止まる。
 それを確認しながら、さらに言葉をつづけた。
「社内恋愛でこじらせたこと、あるんですよね」
 意外にも、はっきりとした声で言うことができた。
 声は震えていなかった。
 だけど、気持ちをきちんと伝えるのは、やっぱり怖かった。
「自分も怖いことがあるのに、それは棚に上げて、私の怖さだけを克服させようとしました」
「……なんで知ってるの?」
「給湯室で……たまたま聞きました」
 静かな沈黙が、私たちの間に落ちる。
 その間、瀬戸さんは苦笑していた。
「そっか」
「……はい」
「バレてたんだな」
「はい」
 はっきりと断言する。
 あまりにもはっきりと返事をしすぎたのか、瀬戸さんはもっと笑った。
 そしてゆっくりと息を吐いて、ほんのすこしだけ、目を伏せる。
「……黒木」
 彼の声が、静かに響く。
「そう。俺も、ほんとは怖い」
「……」
「昔、同じ部署の先輩と付き合ってた」
 オフィスのエアコンの音と、機械の音が、私たちの間に流れる。
 いつもなら気にならないその音が、妙に耳につく気がした。
「その人は、すごく真面目で、責任感が強い人だった。やり手で、信頼も厚くて……海外支店への異動が決まった」
「……」
「ほんとうはついて行きたかったけど、俺は異動の対象じゃない。寂しかったし、行ってほしくなかった。だけど、足を引っ張るのは、違うじゃん?」
 遠くを見つめるような目で、そう呟く。
「それで——心配かけないように『離れても、寂しくないし。海外でも、頑張ってよ』って伝えたんだ。そしたら、振られた」
「……え?」
「『所詮、そんな程度の気持ちだったのね』って」
「……」
「間違ってるとは思わなかった。けど俺、ちゃんと気持ちを伝えるのが、すごく下手だったんだなぁって思って」
 重たい沈黙が、オフィス内に広がる。
 あまりにも静かだった。
 でも私には、この静けさが、すこしだけあたたかく思えた。
「別れてから、人を好きになるのが怖くなった」
「……」
「人と深く関わらなくていいと思っていた。でも、お前が遅くまで仕事して、しんどそうにしているところを見ていると、放っておけなかった」
 私は、そっと息を飲む。
 やっと瀬戸さんと目があった。
 彼は、怖いくらい優しい眼差しをしていた。
「黒木と話すのが、楽しくて。もっと知りたいって思って。気づいたら、好きになっていて。けれどずっと——ほんとうは、怖かった」
「……」
 瀬戸さんはそっと腕を伸ばし、私の頭に、もう一度手を置く。
 その手の温度が、あのときよりも、ずっとあたたかい。
「……黒木」
「……はい」
「俺、お前としっかり向き合いたい」
 私は、ゆっくりと目を閉じた。
 人に甘える。その怖さは今も消えない。けれど、瀬戸さんの話を聞いた今、まずは——彼だけには、素直に甘えてみてもいいのかもしれないと思った。
「……どうしても、怖いです」
「いいよ」
「すぐには、無理かもしれないです」
「いいよ。俺も怖いし」
 優しい声に、心がほどけていく。
 それでも、私はまだ素直になりきれていなかった。
「……で、でも——」
「お前、しつこい」
「……」
「そして俺も、しつこい」
 そう言って瀬戸さんは、吹き出すように笑った。
 その笑いにつられるように、私も小さく笑う。
 瀬戸さんの手が、そっと私の頭を撫でた。あまりにも動きが優しすぎて、胸がきゅうっと締め付けられる。
「……しつこい者同士、ちゃんと向き合おう」
「……」
 私の心臓は、まだすこし暴れている。
 けれど今はまだ、そのままでいいと思えた。
「……ほんとうに、甘えてもいいんですか?」
「何回言わせんの?」
 瀬戸さんは、呆れたように笑う。
 そして私の耳元に顔を寄せて、囁くように言葉を続けた。
「俺は、黒木が好きだと認める。黒木はこれから……しつこいくらい、甘えてこい」
「……」
 瀬戸さんが、すこしだけ顔を赤くしたのが、なんだか新鮮だった。
 私たちは至近距離で目を見合って、また小さく笑う。
 もう私は、逃げない。
 これから頑張って、甘えてみよう。
 心から——そう思えた。


< 9 / 10 >

この作品をシェア

pagetop