あなたがいないと、息もできなかった。
第一章:幼なじみ、そして婚約者へ
──透真(とうま)が隣にいる。それだけで、世界が穏やかになる。
高校の頃から、奏音(かのん)はそう思っていた。
彼の声に救われ、笑顔に癒され、視線に満たされて──いつしか、「透真がいなければ自分は壊れてしまう」と思うようになった。
五月の終わり、雨上がりの夕暮れ。まだ水滴の残る歩道を、二人は並んで歩いていた。
「今日も、残業だった?」
「ん、うん。でも奏音の顔見たら元気になった」
透真の何気ない言葉に、心臓が高鳴る。
大学生になってからというもの、彼はすっかり大人びて、スーツ姿も板についた。それでも話し方や仕草には、子どもの頃からの優しさが残っている。
奏音はそのすべてを、誰にも渡したくないと思っていた。
「明日も仕事でしょ? ごはん、うちで食べていく?」
「いいの?」
「うん。お母さんも、透真くんの好きな煮込みハンバーグ作ってるって言ってたよ」
「……なんかもう、結婚してるみたいだな、俺ら」
そう言って、透真がふっと笑った。
胸の奥が甘く疼く。
──そうなれたらいいのに。ずっと、こんなふうに。
奏音の家と透真の家は、隣同士だ。幼稚園から高校まで、ずっと同じ学校で、家の窓越しに手を振るのが日常だった。
大人たちの間でも「もう将来は決まってるようなもんだね」と言われるのが当たり前になっていた。
だから自然に、二人は「婚約者」になった。
──けれど、周囲はそれを「未熟だ」と笑った。
早すぎるとか、共倒れになるとか、依存しすぎだとか──
どんな声が飛んできても、奏音は気にしなかった。
透真さえ、そばにいてくれたら、それでいい。
その夜、食後に透真と二人でテラスに出た。
まだ雨の香りが残る空気。ぬるい風が頬を撫でる。
「……奏音、最近よく泣くなって、ちょっと思ってた」
「……うん、たぶん、不安なんだと思う」
「なにが?」
「透真が、どんどん遠くに行く気がして。わたしだけ置いてかれそうで」
その言葉に、透真は驚いたように目を見開いた。
そして、そっと彼の指が頬に触れる。
「置いていくわけないだろ。俺がどれだけ奏音のこと、守りたいと思ってるか……」
「じゃあ、もっと一緒にいて」
奏音は甘えるように口元を震わせ、彼の胸に額を押し当てた。
「わたし、透真がいないと……死んじゃう、かもしれない」
「そんなこと言うな。俺も、奏音を失ったら……生きていけないよ」
たしかに、そのときの二人は心の奥底まで繋がっていた。
いや、絡まり合っていた。ほどけることなく、逃れられないほどに。
──それが愛だと、信じていた。
***
ある晩、透真が寝落ちしてしまったリビングで、奏音はスマホを見ていた。
──大学のゼミ仲間らしい女の子と、透真が並んで映っている写真。
(……だれ?)
SNSで流れてきた、他愛ない集合写真。
それだけのことで、胸が苦しくなった。脈が早まって、呼吸がうまくできなくなった。
透真は、私のものでしょう? 誰かと笑ってるの、見たくない。
──そう思ってしまった自分に、少しだけ怖くなる。
「ねえ、透真。あの子、誰?」
「え……? ああ、ゼミの後輩。何かあった?」
「ふーん……。じゃあ、もう会わないで。私、嫌だから」
「……奏音……」
透真は、少し困ったように笑った。
「わかった。もう会わないよ。奏音が、そう言うなら」
そのやさしさが、何よりの依存だった。
***
半年後。
透真は大学を卒業し、親の会社で働き始めた。
奏音はその間も家事手伝いや、花嫁修業のようなことをしながら、彼の帰りを待つ日々を続けていた。
会える時間は減った。電話も遅くなった。
だけど、それが仕事のせいなら仕方ない。
「私は待つだけ。透真が来てくれたら、それでいいの」
でも──ある日、彼が来なかった。
何の連絡もなく、ただ、夜が明けて、朝が来た。
(……まさか、事故?)
心臓が潰れそうになりながら、彼のスマホに何度も電話をかけた。
でも、出ない。
……不安と焦りで全身が冷たくなる。
「透真がいなかったら、生きていけない」
──その言葉が、胸の中で何度も反響した。
朝9時。やっと連絡がきた。
《ごめん。帰れなかった。会社泊まり》
それだけの短いメッセージに、安心と共に涙がこぼれた。
──愛してる。愛してる。だから、もっと傍にいて。