あなたがいないと、息もできなかった。
第二章:境界線の崩壊
──その日、透真は昼食を抜いていた。
「今日中に数字まとめて、明日のプレゼン資料も修正か……」
社長である父の会社に入って半年。透真は若手ながらも多くの案件を任され、周囲の期待を一身に背負っていた。
けれど──家に帰れば、奏音が待っている。彼女の笑顔を見れば、どんなに疲れていても頑張れる。そう信じていた。
だが──
「昨日、電話くれなかったよね」
「夜遅いってわかってたけど……やっぱり寂しかった」
「ちゃんと、私のこと優先してくれてる?」
最近の奏音は、少しずつ言葉が鋭くなっていた。
「……ごめん、疲れてて……返事できなかったんだ」
「うん、わかってる。……でも、私、透真がいないと眠れないの」
そんなふうに甘える彼女が、たまらなく愛しいと感じる一方で、ほんの少しだけ「息苦しい」と思ってしまった自分に、透真は気づいていた。
***
ある夜。
プレゼンの準備で徹夜明けの透真は、ようやくの休みに奏音の家を訪れた。
「透真! 来てくれたの……っ」
「ん……ごめん、顔見たかった」
ソファに座った瞬間、疲労がどっと押し寄せる。奏音が入れてくれたコーヒーの香りが、やけに心に染みた。
「今日はね、あなたの好きなミートグラタン作ったの。後で温めるね?」
「ありがとう……本当に、奏音の存在が……俺の救いだよ」
「……ほんと?」
「うん。俺、きっと……奏音がいなかったら、ここまで頑張れてない」
その言葉に、奏音の瞳が揺れた。
──大丈夫。私だけは透真を裏切らない。支える。守る。愛し続ける。
その夜、彼の腕の中で眠った奏音は、はじめて夢の中で泣いた。
離れたくない。壊れてもいいから、ずっと傍にいたい──そう願っていた。
***
だけど、限界はすぐに来た。
ある日。雨が降っていた昼下がり。
社内の会議室。透真がプレゼンの途中で、突然ふらりと体を傾けた。
「……っ!」
倒れた。
資料が床に散らばり、同僚の声が飛び交う中──透真はそのまま意識を失った。
すぐに救急搬送され、医師から告げられたのは「極度の疲労とストレスによる失神」だった。
奏音が病室に駆けつけたのは、夜も深まった頃だった。
「透真……透真……っ」
ベッドに横たわる彼の顔は、どこか穏やかで、そして儚かった。
「どうして……こんなになるまで……」
涙が止まらなかった。手を握ろうとしても、その指が震えていて、うまく触れることができない。
──そのとき、静かに病室へ入ってきた医師が、声をかけた。
「あなたが……奏音さんですね」
「はい……私、婚約者です……!」
「……少しだけ、お話をよろしいですか?」
医師の言葉は、静かで、けれど鋭く心を刺した。
「彼は、精神的なプレッシャーと、身体的な疲労が重なって倒れました。原因の一つに、過剰な責任感があります。周囲の期待、自分への義務、そして──人間関係」
「……」
「あなたを責めているわけではありません。ただ、透真さんはとても“抱え込む”タイプの方です。守るべき存在があるほど、無理をしてしまう」
──まるで、奏音の心を見透かすような言葉だった。
「彼を愛しているなら、少しだけ、距離を取ってあげてください」
「距離……」
「はい。今の彼には、それが必要です。彼が立ち直るためにも、あなた自身のためにも」
耳の奥で、何かがひび割れるような音がした。
──私は、彼の“負担”だったの?
***
面会制限のある数日間。
奏音は毎晩、透真の寝顔を思い浮かべては泣いた。
どうして私は、彼を疲れさせたの。
どうして、「会いたい」「寂しい」ばかり言ってしまったの。
──私が彼を壊してしまったんだ。
それでも、透真が目を覚ましたとき。
「……奏音……」
彼は、弱々しく微笑んだ。
「会いたかった……君の夢、見てた」
「……っ……ごめん、ごめんなさい、透真……!」
「……なんで、謝るの?」
「私のせいで、こんなに無理させて……ずっと、わたし、甘えてばっかりで……!」
ベッドの上、手を伸ばしてきた透真が、奏音の涙を拭う。
「違うよ。奏音がいたから、俺は……生きてこれたんだ。全部、自分のせいだよ。俺が弱かっただけ……」
だけど、奏音はもう、わかっていた。
二人の関係が、共依存になっていたこと。
愛情が、彼の自由を奪っていたこと。
そして、これ以上続けてしまえば──お互い、壊れてしまうこと。
◇ ◇ ◇
透真の退院が決まった日。
奏音は手紙を書いて、彼の部屋に置いた。
【透真へ。
私は、あなたがいなければ生きていけないと思っていた。
でも、本当は違う。そうじゃなきゃいけないと思い込んでた。
あなたを愛してる。でも、それだけじゃダメなんだって気づいた。
このままでは、あなたを苦しめてしまう。
少しだけ時間が欲しい。自分の足で立てるように、強くなる時間。
だから、離れます。
さよならじゃない。けれど、今は、お別れです。
奏音より】
「……ばいばい、元気でねっ」
──そう呟いて奏音は出て行った。