あなたがいないと、息もできなかった。
第三章:離れる決意
透真と別れてから、最初の朝。
目が覚めた瞬間、涙が勝手に溢れてきた。
この五年間で、朝一番に目にしていたのはいつも透真のメッセージだった。
【おはよう】
【今日は遅くなる】
【明日、会える?】
今、その全てがない。
ぽっかりと空いた胸の奥に、冷たい風が吹き抜ける。
心臓が「透真」と叫びたがっている。でも、もう彼にすがるわけにはいかない。
(私は、透真に依存してた)
透真の笑顔が欲しかった。
透真のぬくもりに浸っていたかった。
でも──その温もりが彼の命を削っていたとしたら、
私はただの加害者だった。
──それなら、離れなきゃいけない。
奏音は地元を離れ、郊外のアパートに引っ越した。
派遣で事務の仕事を始め、朝は一人で目覚ましを止め、夜は一人でごはんを食べる。
一人でいる時間は、最初は苦痛でしかなかった。
お弁当を作るときも、洗濯物を干すときも、テレビを見るときも──
ここに透真がいたら、と何度も考えてしまう。
でも、少しずつ、心に変化が現れた。
──透真がいないのに、今日も生きてる。
一年目の冬。
ついに、誰にも「寂しい」と言わずに乗り切った。
雪の降る中、一人で駅に向かい、凍えながら歩いた夜。
あのとき、確かに感じた。
「わたし、ひとりで、歩いてる」って。
***
奏音がいなくなった夜。
透真は、何も言えなかった。
手紙を何度も読み返し、「自分が悪かった」と思いながらも、「奏音は俺を嫌いになったのか」と自問する日々が続いた。
スマホに指がかかる。
LINEを開く。
でも──送信のボタンが押せない。
(奏音を追いかけちゃいけない)
彼女が苦しんでいたことに、気づいていなかった。
自分が守っているつもりだったのに、その実、依存させていたのは──自分の方だったのかもしれない。
仕事も、心が入らなくなった。
誰にも笑いかけられず、ただ会社と家を往復する日々。
そんなとき、会社の先輩から言われた。
「透真、お前さ──誰かの人生に全部責任持とうとしてんじゃねぇの?」
「……え?」
「他人の人生に、自分の正解ぶつけても、誰も幸せになれないよ。お前自身、幸せそうじゃねぇし」
その言葉に、目の前の景色がぐらついた。
──俺は、奏音の人生を“預かった”つもりでいた。
彼女の不安をすべて受け止めて、どんなに苦しくても「大丈夫」と言い続けて。
それが優しさだと思っていた。
でも、違った。
そうやって彼女の「自立する力」を奪っていたのは、自分だったのだ。
透真は会社を辞め、地方の小さな経営コンサルの会社へ転職した。
もっと、肩書も、世間体も、捨ててみたかった。
「誰かの未来のために、自分がただそこにいるだけの仕事」がしたかった。
夜、一人きりのアパートで、ギターを弾く。
かつて奏音が「好き」と言ってくれた曲。
そのメロディの中で、ようやく自分の涙に気づいた。
「俺、やっぱり……奏音が、好きだ」
***
五年の歳月は、奏音を少しだけ強くした。
生活も、自分の感情の整え方も、「誰かに委ねずに」こなせるようになった。
そして、もうひとつ──
「誰かを想っても、自分を失わない」ことの大切さも知った。
最初は透真を忘れたかった。
でも、ある日ふと鏡を見たとき、自分の顔に昔の面影が残っていた。
「……まだ、透真のこと、好きなんだな」
だけど今は、あの頃と違う。
“好き”が“依存”じゃない。
彼を求める気持ちは、私自身を犠牲にしないものになっていた。
──それでも、もう会えないのかもしれない。
そう思っていた矢先だった。
***
再会のきっかけは、偶然だった。
──いや、必然だったのかもしれない。
出張で訪れた地方の街。その静かな図書館で、ふと受付を見たとき。
そこにいたのは、奏音だった。
「……奏音……?」
時が止まった。
彼女が顔を上げる。
その目が、わずかに揺れ、そして柔らかく笑った。
──何も言えなかった。
ただ、「ああ、生きていてくれて、ありがとう」と思った。