見てはいけない恋。 ―オフィスのガラス越しに始まった、誰にも言えない想い―

第六話「噂のはじまり、焦りの気配」



 

「ねえ、やっぱりそうなんじゃない?」

昼休み、女子更衣室。開いたロッカーの向こうで、ひそひそと声が交わされた。

「昨日の帰り際、見たって。主任が白川さんの書類、代わりに提出してたって」

「え、それもう確定じゃん。あれは完全に、特別扱いでしょ……」

 

私は、ロッカーの扉を閉めて息を吐いた。

来てしまった。

この瞬間が。

 

予感はしていた。あの距離を、誰も気づかないはずがない。

けれど実際、噂が「形」になって耳に入ってくると、胸の奥がざわつく。

自分の中の“なにか”を試されているような、そんな気持ちになる。

 

白川さんはきっと知らない。

いや、気づかないふりをしてるのかもしれない。

あの優しさは、恋を知らない人にはあまりにも強すぎる毒だ。

 

そして、主任も。

彼はいつも通りを装っているけれど、視線だけがどこか不安定になってきている。

白川さんを追う目と、周囲の空気を読む目。両方が、ほんの少しだけ揺れていた。

 

 

そんな午後、仕事がひと段落したタイミングで、総務の男性――若林さんが、近づいてきた。

「相原さん、来週の社内親睦会、参加されます?」

「え、あ……はい。一応、出る予定です」

「よかった! もしよければ、隣、いいですか? 経理の席、あんまり知ってる人いないから」

 

まるで冗談みたいに軽やかで、でもその目は、意外と真剣だった。

 

「……はい、大丈夫です」

そう答えながら、私はどこか自分じゃないような気がしていた。

 

そのやりとりを、ふと誰かが見ている気配を感じて、目だけを動かす。

 

――黒澤主任だった。

彼は、廊下の向こうで資料を手にしながら、じっとこちらを見ていた。

無表情。でも、目が……明らかに。

 

数秒の沈黙。

そして彼は、目を逸らして、踵を返した。

 

その後ろ姿を見つめながら、私は自分の心が小さくざわめくのを感じていた。

どうして?

――私はあなたの気持ちなんて、知りたくなかったはずなのに。

 

 

* * * 

 

その夜、帰り支度をしていると、白川さんが不安そうに声をかけてきた。

「……相原さん、あの、ちょっと噂が流れてるって、聞きました」

 

「うん、まぁ……」

言葉を選んだ。

 

「でも、気にしなくていいよ。噂なんて、勝手に消えることもあるし」

「……でも、主任に迷惑かけたらって思って」

 

――そう言うところだよ。

その健気さが、主任を本気にさせてるんだよ。

 

心の中でそう呟きながらも、私は微笑むしかなかった。

「ちゃんと主任が守ってくれるよ、そういう時は」

 

白川さんは、少し照れたように笑って「はい」と言った。

その顔を見て、私は目を伏せるしかなかった。

 

 

一方、主任は――

帰り道、車に乗り込むとすぐにスマホを取り出し、経理部の報告スケジュールを確認するふりをして、視線を送った。

 

そこには、白川ではない――相原の名前。

 

彼女が誰かに誘われた瞬間を、見てしまったこと。

あのとき、自分が思っていた以上に心がざわついたこと。

 

認めたくない焦りが、じわじわと心を侵食していく。

 

俺は、何を焦っている?

誰を見ている?

何を守りたいと思っている?

 

言葉にならない感情だけが、夜の車内に静かに積もっていった。


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