見てはいけない恋。 ―オフィスのガラス越しに始まった、誰にも言えない想い―

第八話「誰にも言えない不安」



 

何かが、変わった。

 

最近の黒澤主任は、優しいのに、どこか遠い。

以前のように、ふいに肩に触れたり、会議のあとに「大丈夫か?」と低い声で尋ねてきたり――そういう、さりげない距離の近さが、少しだけ引いている気がした。

 

「紗月ちゃん、主任と仲いいんだね」

同じ経理部の先輩が、柔らかく言った。

口調は穏やかでも、その瞳には微かな探りが混じっていた。

 

「……いえ、そんなことないです」

咄嗟にそう返した自分が、情けなかった。

本当は。

あの優しさに、何度も救われていた。

誰にも言えないけれど――主任の声やまなざしに、心が少しずつ染まっていた。

 

でも今、その優しさが、目の前から少しずつ遠のいている気がする。

 

それは、きっと気のせいじゃない。

 

 

* * * 

 

昼休み、休憩室のすみでひとり飲み物を選んでいると、向こうから主任と……相原さんが並んで歩いてきた。

主任は何か話しかけ、相原さんが静かにうなずいて笑っていた。

 

ふたりの間の空気が、穏やかだった。

お互い、信頼し合っているように見えた。

 

私は、思わず目を伏せた。

胸の奥が、じんと痛んだ。

 

(なに、これ)

私には関係ないはずなのに。

主任は、ただの上司。

私は、ただの部下。

……なのに、どうして、こんなに苦しいの?

 

噂は、日に日に広がっている。

「主任って、白川さんのこと気に入ってるよね」
「いや、この前は相原さんとふたりで話してたって」
「三角関係……?」

 

私は、話題の中心になんかなりたくなかった。

ただ静かに、目立たずにいたかっただけなのに。

 

 

* * * 

 

その日の夕方。

書類を提出しに営業部へ行った帰り、廊下の角で、主任とすれ違った。

「あ――白川」

彼が私に気づいて声をかける。

でも、私はその声に、立ち止まることができなかった。

 

「……すみません、急ぎの伝票があるので」

そう言って、ぺこりと頭を下げたまま、足を止めずに通りすぎた。

 

背中に、主任の視線を感じた。

でも、振り返らなかった。

もし目が合えば、泣きそうになる気がしたから。

 

 

(主任……)

私の心が求めているのは、
きっと、“ただの上司”じゃない。

 

でも、主任が本当に見ているのは――私じゃないのかもしれない。
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