クワンティエンの夢(阿漕の浦奇談の続き)

別格の空の僧あらわる

「…茫然自失した途端にですな、ハハハ、要らぬ老婆心を起こされまして、斯く託宣申し上げたわけです。生ける観音像がごときあなたの様に‘誰かよく気を尽くさざるや。難転迂回さすこそこれ僧の務めなり’などと、ハハハ、つとに心得たがゆえです。邪淫戒を悉皆心得ぬような拙僧の不節操はお許しあれ。彼の小野小町の美にただ従順だった、僧遍上に習ったまでのことです。ハハハ」と屈託なく笑う。雲に閉ざされて陰鬱だった風景がみるみる壮大なパノラマに変り行くような奇跡の豹変に、誰もが目を見張って言葉もない。これに誰よりも意を強くした亜希子だったがしかし一言異を唱えざるをも得なかった。「あの、お言葉ですが、その…生ける観音像だの小野小町だの、過分な賞賛はどうか止してください」とひとこと釘を刺したあとでしかし続けて、「私、そんなことを聞きたくて呼び止めたのではありません。あの、その、フフフ、私…あなたにどこかでお目にかかったような気がして…お懐かしいような…胸がいっぱいになって…。どうか、私の気持ちを受け止めてください」とあふれる胸のうちを開陳してはばからない。ふだん決して取り乱さず、皆の前では常に母親然としている部長のこの姿に、織江と絹子を始め部員全員が気を飲まれざるを得なかった。だいたい部長は自分の云っていることがさきほどの鳥羽同様、何の脈路もない、世迷ごとの類であることに気づいているのか。突然なぜそんなことを云うのだろうとばかり、8人は(正確には6人であるが…)まるで自分たち子供の前で母親が、節操もなく男に言い寄っているような心持ちにもなってしまうのだった。しかし亜希子における実際のところはそれとはかなり違っていた。なぜか、千里の隔たりを経てやっと巡り会えた師に、必死にすがるがごとき思いに陥っていたのである。誰か熱い胸のうちを、込み上げて来るものを押しとどめられるだろうか。『…いつの世も一番弟子たらん…』という誰かの声が亜希子の胸のうちに響き渡っていた。
それへ、鷹揚にうなづいて見せて、僧が亜希子の思いをしっかりと受け止めたようだ。しかしここでもし腕など差し伸べようものなら、亜希子はきっと感涙にむせびながら僧の胸に飛び込んで行くのに違いない。宿世の願いが、業への対決が、そのように軽々しく現れ、為されるものだろうか。為されていいものだろうか。それは畢竟彼女藤原亜希子ひとりで為されねばならないことのはずである。亜希子以上に師弟への思い、就中弟子への思い篤く、強きがゆえに、僧はなお彼女との間に一壁をつくらざるを得なかった。また自らはいまは空の身であり、現し身はこの男である。彼が主役であらねばならないことを、それが現世の決まり事であることをよくよく承知していた(これが悪霊の憑依となると100%自らが出、支配してしまう)。この男のふだんからの感性と意趣の中に我空を沈めつつ、僧は自らを男にからめて行くのだった。一方かたやの男にしてみれば確かにいま自分がしゃべっているのだが同時に、第三者的に、自分の言動を感心しながら聞いているような塩梅なのであり、一種摩訶不思議な心持ちになっていたのに違いない。彼にはふだんから祭り場における口上士のような、取って付けたような口上癖があった。いまなぜかあふれ来る出所の知れない知識と、委細無かったはずの胆力に溺れ、また普段は決して会って話すこともないだろう妙齢の娘たちに囲まれてかなりヒートアップし、且つ自らに酔っていた。空なる僧はそれと知りつつ、ともに楽しんでいる…。
< 24 / 51 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop