突然、あなたが契約彼氏になりました
第一章
 大きな会社には法務という部署がある。

 契約書の管理やコンプライアンスに関する事や訴訟問題などに取り組むのが、彼の仕事だという事ぐらいは菜々も知っている。

 果たして、こんな案件を持ち込んでもいいのだろうか。きっと、忙しいに違いない。

 彼というのは、法務担当の小塚悠斗のことである。今年、二十七歳になったばかりの彼は、京都大学の法学部を卒業する前に行政書士の資格を取得しているインテリで、喜怒哀楽に乏しくて、いつも淡々としている。

 細身で長身。ファイナルファンタージーのキャラクターのように上品な顔立ちで、近未来の高性能なアンドロイドを思わせる。かなりの美形で感情の起伏があまりなさそうに見える。

(きっと、頭脳明晰で冷静沈着なんだろうなぁ……)

 我が社は創業六十年の節目を迎える老舗で海外との取り引きも多い。昔は、レトルト食品の製造と販売を主体としていたが、近年は、冷凍食品やペットフードなども取り扱っている。お給料も良くて福利厚生もバッチリ。妊娠や出産を経て働く女性も多い。

 菜々としは社内で余計な波風を立てたくないのだが、小さな声で囁くようにして相談したい事がありますと言うと、静かに頷いて小部屋へと案内してくれた。会社で訴訟が起きた時などは、この部屋で社外の弁護士さんと打ち合わせをすることになっている。それ以外にも、社内のパワハラやセクハラなどの相談に乗る際にもこの小部屋が使われているのだ。

 小塚は、革張りのソファに座るとすぐに切り出した。

「土屋さんは謎めいた事件に遭われたそうですね」

「はぁ……。事件と呼んでいいのか分からないんですけど……。セクハラというのか、そんな感じの出来事なんですけど」

 先週の金曜の夜の出来事だった。

 素朴な店で菜々が一人で焼き鳥を食べていると、営業部の田中匠が店に入ってきて菜々の隣に座った。田中は、菜々より二歳年上の二十九歳で独身のアイドル顔のイケメンである。
 
『ねぇ、この後、お酒を奢らせてよ。こないだのお礼だよ』

 先週の水曜、紙コップに入ったコーヒーを田中が総務の前の廊下にこぼしてしまい、総務の菜々が掃除したので、お礼の意味で誘ったのだろうと思いタクシーに乗った。連れて行かれたのはお洒落なバー。田中に勧められたカクテルを飲んだ後、テレビの電源でも切ったかのように菜々の意識が消えていたのである。 

「それで、夜中に目覚たら、徳光エルザさんのマンションの一室にいたんですよ」

 あの時、菜々を介抱しながら、徳光さんが叱りつけるようにして声を震わせていた。

『あなた、馬鹿ね。あたしが、あの場に現れなかったら、田中にお持ち帰りされていたところよ!』

 血管が暴発してしまいそうなほどに頭が痛くて苦しかった。

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