桜ふたたび 前編

3、嵐の夜に

梅雨明け前の台風は、異例の進路をたどり、温帯低気圧に変わってもなお勢力の衰えを見せない。
東京も暴風雨が予想され、各交通機関から次々と計画運休が発表された。

週末ということもあり、企業はこぞって早めの帰宅を促し、ジェイの過密スケジュールも、16時以降はすべてキャンセルとなった。

次第に激しさを増してきた雨風。雨粒がピシパシと車窓にぶつかり、弾け飛ぶ。

窓に向けたジェイの眉に、わずかな険しさを見て、柏木はおやっと瞼を上げた。

──問題は未解決か。

女をホテルに残しているのだ。一刻も早く戻りたかろう。これは天からの僥倖と、喜んでいるかと思いきや……、この様子だと、拗らせているのか?

これだけのルックスとハイスペック、ハイステイタス。性格に難があっても、数々の浮名を流すくらいだから、女には不自由しないはずだ。

だから、春に京都で澪を見たとき、ごく普通のお嬢さんに、意外に思った。
控えめで、物静かな印象だったが、彼ともあろう男がここまで手こずるとは、見かけによらず情強な性質なのかもしれない。

しかし昨夜はまいった。
彼の型破りな言動に今さら驚きもしないが、突然、姿を消したかと思ったら、いきなり〈拉致した〉と女を新幹線に連れ込んで来るとは……。

はじめは、痴話げんかに巻き込まれたとげんなりした。
だが、バツの悪さを不機嫌さで誤魔化そうとする彼と、怯えた彼女の様子を見てみると、拉致話もあながち冗談ではなかったようだ。

しかしいくら彼でも、拉致はまずい。拉致は。

幼少の砌から徹底した英才教育を受け、帝王学をたたき込まれたサラブレッド。
二十歳でハーバードビジネススクールのMBA(経営学修士)を修得した秀才。
心理学・行動経済学のエキスパートで、ディベートの天才にして、ネゴシエーションの達人。

そんな彼でも、女心は読み違えるのか。

人間の感情さえ悟性によって論じ、いついかなるときにも神色自若としていた鉄仮面が、感情をあらわにした姿を、柏木は昨夜初めて目の当たりにしたのだ。

彼もやはり一個の男だったか。
恋に悩む横顔を少し身近に感じて、ほくそ笑む柏木だった。

そのとき──

『止めろ』

低く短い下知。
車内の空気が、一瞬で凍った。
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