その笑顔を守るために
エピローグ
ゴールデンウィーク明けの成田空港…人も疎らなロビーはゆったりと落ち着いた時間が流れている。時折行き交うスーツ姿のビジネスマンやピークを外した旅行客がちらほらと見受けられる程度だ。発着を告げるアナウンスも耳に心地いい。
瑠唯は小さな溜息をひとつ漏らすと、JRの駅を目指す。空港ロビーを出ると不快な空気が肌に纏わりついた。まだ5月の中頃というのに、この国の気候は爽やかとはいいがたい重たい空気に包まれている。
相変わらず湿気の多い国だ。

原田瑠唯…女性としては少し高めの165センチの身長にスラリと伸びた手足…すっと伸びた背筋が凛とした雰囲気を醸し出す。ゆるく天然ウエーブのかかった色素の薄い髪、抜けるような白い肌に少しタレ気味のクリンとした二重の目…日本人離れした薄茶色の瞳とぷっくりした唇がまるでフランス人形のようだ。
全く化粧っ気の無い顔は二十歳そこそこの学生にも見える。彼女にとってこの子供っぽい容姿はコンプレックスでもあるのだが…。
すれ違う男性が皆振り返るのも無自覚だ。
国立の医学部を優秀な成績で卒業して、そのままその大学の付属病院で二年間の研修を終えた後、シアトル大学病院に勤務していた外科医、大野の呼び出しに応じて米国に渡った。当時、シアトルで頭角を現し始めていた大野淳平は、父の教え子で、瑠唯が子供の頃によく家に食事に来ていた。豪傑なこの学生を父はとてもに気に入っていたらしく、瑠唯も、声も身体も大きなお兄さんとして印象に残っている。シアトルで二年、その後大野に従い、紛争地帯の医療に従事する事一年…絶え間ない爆音…日々運び込まれる負傷者、救いきれない命…そして、直ぐ側に落ちた爆弾につい先程まで共に過ごしていた子供たちが巻き込まれるという惨事を目の当たりにした時…瑠唯の心が不安定に傾き始めた。
それを見た大野に帰国を促されたのだ。

この国に降り立つのは実に三年ぶりだ。両親も親戚も親しいと言えるような友人すらもいないこの国は、原田瑠唯にとって母国と言うには、あまりにも縁の薄い国である。目的の地は此処から更に一時間程電車を乗り継いだ、生まれてこのかた縁も所縁も無い土地だ。其処を目指す理由はただひとつ…恩師である大野に『此処へ行け』と言われたから。自分では何も判断がつかないほど、瑠唯の心と身体は疲弊していた。


昼過ぎの駅はゆったりとした時間が流れていた。駅前の風景は何処か懐かしく、澄んだ空気に包まれていた。海にほど近いこの土地は幾分蒸し暑さも凌ぎやすく、頬を掠める風には微かに潮の香りがする。改札を出た所で周りを見回していると、ふと背後から懐かしい声がした。

「瑠唯…」

学生時代に慣れ親しんだ少し低い温かみのある声…
振り返った瑠唯が目を見開いて…

「孝太…えっ…何で…?」

「久しぶり…俺、今、高山総合病院のERにいるんだ。院長に頼まれて、瑠唯を迎えに来た。」

「…そうなん…ですね。お久しぶりです…長谷川先輩…」

そう挨拶され、孝太は口端を少し上げ、ふっと小さく息を吐く。昔瑠唯が好きだった仕草…

「…そうゆうノリでくるんだ…まあ…とりあえず乗って」

そう言って瑠唯の手からスーツケースを受け取ると、ロータリーに停めてあるSUVを目指して歩き出す。あの頃と変わらない逞しい背中に思わず手を伸ばしたくなる自分を自嘲する。

何を何処からどう話せば良いのか全く分からず、沈黙のままの車の中は何とも居心地の悪いものだった。仕方なく窓の外を流れる景色を眺め続ける。

「少し痩せたか?まぁもともと痩せ気味だったけど…ちょっと痩せすぎじゃないのか?あっちは大変だったか?」と運転席から声をかけられる。

長谷川孝太…大学一年の時に知り合い、程なく付き合いはじめた医学部の二年上の先輩である。
大学二年の時に不慮の事故で両親を一度に亡くした。飛び出してきた子供を避けたトラックに父の運転する車が正面衝突され、父はその場で即死…母はかろうじて息があり救急車で病院に運ばれたが、治療の甲斐なく命を落とした。
瑠唯が連絡を受けて駆けつけた時にはもう既にかえらぬ人となっていた。一度に両親を亡くして天涯孤独の身の上となった彼女をその後も何かと支えてくれたのが彼だった。おかげで、無事医学部を卒業出来た。
穏やかで温かい彼の事が本当に好きだった。そんな二人の関係も彼が卒業して、研修期間に入ると多忙を極め、徐々に会う機会も減り疎遠になる。
喧嘩した訳でもなく、まして嫌いになった訳でもない。事実こうして再び巡り会えば心にあの頃の想いが溢れだす。決して振り返ってはいけない想いが…

「そんなに痩せた自覚は無いんですけど…最後の一年は食事もなかなかままならない地域にいましたから…」

「ずっと気にはしてたんだ。研修終わってすぐシアトルの大野先生のとこに行ったんだよなぁ?その後は?何処に居たの?」

「大野先生と一緒に紛争地帯の医療機関に一年いました。」

「…全然知らなかった…」と、孝太が唖然とする。

「大野先生は?まだあっちに居るの?」

「先生も、もう間もなく戻られると思います。」

「えっ…?じゃあ、大野先生もうちの病院で勤務するの?」

「勤務されるかどうかは、わかりませんが…とりあえず、こちらにいらっしゃるとのことです。此処で待つように言われてますから」

少し困惑気味に瑠唯が応える。

「すげぇーじゃあ、大野先生に会えるんだー!手術とかも見れるかなぁ?」

「…っ?」

「大野淳平って言ったら俺等ERの世界じゃあ神様みたいなもんだからなぁ〜最近では脳外の方でも注目されてるし…去年、向こうで物凄く難しい手術成功させたって話題になってただろう?あっ…もしかしてその手術見てたか?」

瑠唯はどう答えたものかと自問する。見てたどころでは無い。第一助手として共に手術に携わったからだ…けれど、そのことを告げることは何となく憚られた。日本でも話題に上るほどの手術の前立ちを未だ経験の浅い彼女が務めたのは異例の事だ。大野の日頃のスパルタ指導と上への説得のおかげであった。

「ええ…その場にいましたから。」…と、曖昧に答えた。

「こっちでもそう言う手術やらないかなぁ?絶対間近でみてみたいよな!第二でもいいから入ってみてー」

「もしかしたら、そう言う機会もあるかもしれませんね」

そう答えると瑠唯は又外の景色に目をやる…間もなく、車は渋滞することもなく町中を抜けて海を見渡す高台に建つ〈高山総合病院〉に到着した。

「荷物は後で運んでやるから…とりあえず院長室に連れて来るように言われてる。」

高山総合病院…病床数約300という地域に根付いた中規模病院である。此処の院長が大野の恩師だとの事で、万年的に医師不足のこの病院で今日から瑠唯は常勤医師として勤務する事になっている。





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