社長秘書に甘く溶かされて

第14話 線路に突き落とされて

 真奈美はその日の仕事を終えると、会社の近くの喫茶店で鷹夜と落ち合うことにする。
 スマホのメッセージアプリで彼に喫茶店で待っている旨を連絡し、ホットココアを注文して、少し息をついた。
 窓際の席で外を眺めながら、鷹夜が来るのを待っていると、誰かが向かいに座る。

「あ、すみません、人が来る予定で――」

 真奈美が窓から視線をそらして、席に座ろうとする人物を見上げる。

「冴原真奈美さん、ですよね?」

 赤いワンピースに黒いジャケットの女。
 朝に遭遇した、鷹夜のストーカー、君臣照代が微笑んでいた。
 思わず息を呑んだ真奈美に構わず、「失礼しますね」とそのまま席につく。

「あ、あの……」

「鷹夜くんがお世話になってます」

 照代は有無を言わせない、圧を感じる笑みを浮かべていた。正直、この笑顔、怖い。
 真奈美は掌にじっとり汗をかいているのを感じる。
 ――私のフルネームを呼んだということは、私のことも調べたんだ。朝に出会ってから、この短時間で?
 目の前の女に得体のしれない恐怖を抱いた。そんな真奈美のこわばった顔を無視して、照代は「少し真奈美さんとお話してみたくて来ちゃいました」と少女のような無垢な笑みを浮かべる。

「真奈美さんは、鷹夜くんのお友達、ですよね?」

「……いえ、恋人です」

 照代は真奈美をどうしても「彼のお友達」としたかったようだが、真奈美はここで怖気づいてはいけないと感じた。
 ごくりとつばを飲み込みながら、女の目を見据える。
 しかし、照代は優しい微笑みを浮かべるのみであった。

「ふふ、冗談がお上手なのね」

「いえ、私は本当に……」

「でも、私の大切な人を恋人なんて、冗談でもやめてほしいわ」

 細めていた目を開くと、そこには黒い森の中のような、見る者を不安にさせる漆黒の瞳孔が広がっている。

「私は鷹夜くんのことなら何でも知ってるの。そう、何でもね。あなたよりも詳しい自信があるわ。真奈美さんは鷹夜くんのこと、どこまで知ってる?」

「どこまで、って……」

「真奈美さんはきっと、鷹夜くんにからかわれてるのね。あの人は昔からそうなのよ。自分の美しさが女の子を惑わせていることに自覚がないから」

 真奈美は悪寒が止まらない。背中に冷や汗がつぅと流れていた。
 そんな彼女に構うことなく、照代は喋り続ける。

「鷹夜くんは優しくてかっこいいから、無自覚のうちにいろんな女の子を引っ掛けてしまうの。……困った人よね。でも私、鷹夜くんが大好き。小学校の頃からずっと一緒にいるのも、こうして再会できたのも……きっと運命の赤い糸がふたりを繋げてくれているんだわ。こうして真奈美さんという障害がふたりを遠ざけているのも、きっと神様の課した愛の試練なのね。私、きっと乗り越えてみせるわ」

 この長台詞を、優しく穏やかな微笑みで、ひとり延々と喋っている女を想像してみてほしい。真奈美の恐怖心が少しでも伝われば幸いである。変に逆上されるより怖い。
 真奈美は心臓の鼓動が頭の中にまで鳴り響いてくるのを感じながら、それでも照代に反論しようと静かに深呼吸をして、話を切り出した。

「でも、鷹夜さん、あなたに大学での夏休みの間、その……」

「ああ、鷹夜くん、たしかに家に泊まりに来たわ」

 照代は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「夏休みに入った初日に、彼を誘って家に招待したの。眠ってる男の人って重くて、運ぶのが大変だったけど頑張ったのよ。懐かしいわ。家の中で目を覚ました鷹夜くんはとても驚いていてね。暗闇の中で愛し合って、彼があの時、どんな表情をしてどんな声を出していたか、ちゃんと全部覚えてる。とても綺麗だった……」

 うっとりした顔で言い放つ照代に、真奈美は愕然としていた。
 汗でじっとりと湿った両手を、思わずぎゅっと握りしめる。

「もう、鷹夜さんに関わるのはやめてください。彼を苦しめないでください」

「苦しめる……? 何を言っているの?」

 照代はきょとんとした顔で小首を傾げた。真奈美は声を荒げないようにするので必死である。なんとか冷静に話をしようと努めた。

「あなたのしていることはおかしい。自覚ないんですか? 鷹夜さんがあなたのしたことでどれだけ心に傷を負っているか、知らないんですか?」

 鷹夜は今でもトラウマに苦しんでいる。部屋の電気が消えただけで尋常ではない怯えようを示すのもそのせいであることは明白だった。それを植え付けたのは、この照代という女が元凶なのだ。そう思うと、真奈美は鷹夜以上に猛烈に腹が立ってくる。
 しかし、そんな怒り心頭の真奈美に、照代は動じることはない。

「真奈美さん……かわいそうに」

「なんですって?」

「そんなに鷹夜くんのことを想っていただなんて知らなくて、ごめんなさい。彼に惑わされてかわいそうに。鷹夜くんには私がいるのに」

「このッ……!」

 一瞬で怒りが沸点に到達した真奈美はダンッとテーブルを両手で叩き、椅子を蹴って席を立った。
 そんな激怒した真奈美にも、照代は穏やかな笑みを崩すことはない。

「真奈美さん。私がいなければ、鷹夜くんは生きていくことはできないわ。だって、私は彼の全てなんだもの」

「まだ、そんなふざけたことを!」

 ふと、店内がざわついていることに気づいた。客も店員も何事かと、真奈美と照代を好奇の目で見つめている。
 この状況、はたから見れば逆上した真奈美が悪役に見えてしまう。そう気づいて、真奈美は必死に息を整えた。

「……私、ここで失礼します。あなたとは話し合いが成立しないとよくわかりました」

「わかればいいのよ。鷹夜くんにふさわしいのは私だってね」

「……それでは」

 バッグをつかんで会計に向かおうとした時、「哀れだわ」と小さく呟くような声が聞こえて、真奈美は戻って一度ひっぱたきたくなったが、ここで事を荒立てるわけにはいかないと無視することにする。
 喫茶店を出ると、スマホを手に取り鷹夜に電話をかけた。
 彼はちょうど仕事が終わってこちらに向かっている最中だったらしく、タイミングを間違えていたらあそこで鉢合わせをして大変なことになっていたと胸を撫で下ろす。

「待ち合わせ場所を変えましょう。さっきちょっと大変なことになって……」

「あ、冴原さん!」

 駅に向かって歩きながら電話をしている真奈美に声をかけてきたのは後輩の長谷川だった。
 そういえば、この喫茶店は真奈美の会社の近くである。それは同僚や後輩にだって会うわけで。

「今、帰りですか? 駅まで一緒に行きません?」

「いや、今ちょっと……」

 と言いかけて、振り向くと喫茶店の入口から照代が出てきたのを見てぎょっとしてしまう。
 一度は照代と言い争いをした真奈美である。このままひとりで駅に向かったら背後から刺されるのではないかという恐れもあった。あの女は何をしでかすのか、全く読めないのが怖い。

「どうしたんですか、冴原さん?」

「あ、いや、うん。一緒に駅までついてきてくれない?」

「喜んで!」

 柴犬のように人懐っこい笑みを浮かべる長谷川。
 照代の攻撃に対して守ってくれるかはわからないが、男性が近くにいてくれるのは、ひとりでいるよりは心強いし、女性相手ならなんとかしてくれるだろう。多分。きっと。メイビー。
 駅まで歩きながら、長谷川に「絶対後ろ振り向かないでね」と念押ししてから、現在の状況を手短に話すと、彼は驚いていたし、反射で振り返りそうになって真奈美が慌てて止めた。

「なんか冴原さんっていつもとんでもないことに巻き込まれてますね」

「なんでだろうねえ」

 その「とんでもないこと」の発端はたいてい恋人のせいのような気がするが、真奈美は敢えて口にしない。
 長谷川は「わかりました」と力強くうなずく。

「俺が真奈美さんのこと、しっかり守りますから。まかせといてくださいよ」

「ありがとう、助かる。ちなみに長谷川くんってなんか格闘技とか……」

「いや、全然」

「だよねえ」

「でも、盾代わりくらいにはなりますから」

 長谷川は冷や汗をかきながら引きつった笑いを浮かべていた。
 そうしてふたりで駅までたどり着くと、鷹夜が駅前で待っているのが見える。

「鷹夜さん!」

「真奈美さん、照代は?」

「もうすぐ追いついてきます。早く電車に乗らないと」

「……そちらは?」

 鷹夜は怪訝そうな顔で長谷川を見ていた。

「冴原さんの後輩の長谷川です。先日はどうも」

 長谷川は真奈美とサシ飲みをした夜、マンションまで真奈美を送り届けたときに鷹夜に会っている。

「ああ、あのときの……真奈美さんを送ってくださったのですね。ありがとうございます」

「悠長に喋ってるヒマ、ないんじゃないですか? 早く駅の中、入っちゃいましょうよ」

 長谷川が急かすと、真奈美と鷹夜と3人で、改札を通って駅構内へ。
 仕事終わりの会社員たちで溢れかえった駅の中を、人混みの中に流されるように進んでいく。

「冴原さんたちは、このあとどうするつもりなんですか?」

「鷹夜さんのマンションに避難するつもり。あのまま自宅に帰ったらどんな目にあうかわからないしね」

「でも、永井さんのマンションだって多分住所割れてるでしょ。っていうか、一番あの女が知りたい情報じゃないですか?」

「そのあたりはご心配なく。僕のマンションはセキュリティが充実しておりますので、知られたとしても照代は一切入れません」

「ふーん……」

 鷹夜の言葉に、長谷川は「本当かなあ……」と言いたげな視線を送っていた。
 鷹夜の住むマンションに向かうため、3人は階段を降りて駅のホームに入り、電車を待つ。

「照代、大丈夫でしょうか……」

「人混みに紛れて撒いたはずなので、ここまで追ってこれないとは思いますが……」

 真奈美と鷹夜が小声で話し合いながら、電車はまだかと線路の向こうに視線を向けた。
 しかし、長谷川は納得いかない様子で、仏頂面のまま鷹夜を睨んでいる。

「そもそも永井さんが冴原さんに関わらなければ、ここまで巻き込まれなかったんじゃないですか?」

「長谷川くん、そんな言い方ないでしょ」

 真奈美が眉根を寄せながら長谷川に注意するが、彼は口をつぐむ様子はない。

「っていうか、ふたりとも、こんな状況で顔近すぎ。もっと離れてくださいよ」

 長谷川が真奈美と鷹夜の間に割り込み、真奈美をかばうように背中に隠す。
 その態度に、鷹夜もむっとしたように眉間にシワを寄せた。

「別に、僕達は付き合ってるんですから、近くても何の問題もないでしょう。それに、この人混みの中で、小声で話し合うなら距離を詰めるのも当然では?」

「だいたいねえ、俺はアンタが気に入らないんですよ」

 長谷川は怒った柴犬のような顔で唸っている。
 彼は普段から怒ってもあまり怖くない男ではあったが、真奈美を守るために必死な番犬のように見えた。

「俺のほうが先に冴原さんのこと好きだったのに、ぽっと出の男に横からかっさらわれた気持ち、想像できます? しかも、その男があのマルナガヤの社長秘書だって? 冗談じゃないよ。アンタのせいで、冴原さんが会社でどれだけつらい目にあってるか、アンタ知らないし想像もしてないだろ?」

「ちょっと、やめてよ長谷川くん」

 真奈美は慌ててしまう。長谷川が自分を好きだったという事実にも驚いたが、鷹夜に自分が会社でどういった扱いを受けているか、彼が気に病んでしまうのを恐れて今まで告げていなかったのだ。
 鷹夜は青ざめた顔で長谷川を見つめている。

「――僕のせいで――真奈美さんが――?」

 切れ切れに、呟くように言葉を発している鷹夜は、今にも貧血で倒れそうだ。
 真奈美がふたりの言い争いを止めようとしたそのとき――彼女の身体は宙を舞っていた。

「……え?」

 真奈美は見る。
 先ほどまで自分がいた駅のホームが視界に入り、そこには、ニッコリと美しい微笑みを浮かべた女――君臣照代が立っていた。
 次の瞬間、真奈美は身体に衝撃を受け、痛みが走る。
 錆びた色の金属が手に冷たい。それが線路だと気付いた。
 照代の唇が、騒然としたホームの中で動く。

 「さ、よ、う、な、ら」

 照代の唇の動きが、スローモーションのように見えた。
 電車のライトが眩しく光る。耳鳴りがする。
 それから、真奈美は気づいた。
 あ、死んだわこれ。

「真奈美さん!」

 鷹夜の叫び声が、頭の中で響いていた。

〈続く〉
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