社長秘書に甘く溶かされて
第16話 争い、激化
しかし翌日、照代とは別の、新たな問題が浮上していた。
「おはようございます」
真奈美はいつもどおり、世界屋製菓の企画開発部に出勤する。
彼女がマルナガヤの社長秘書と付き合っているという噂が広まってから、職場の空気は一変した。
挨拶は無視されるか、せいぜい会釈が返ってくる程度。それが日常になっていた。
それを気にしないようにしようとは思いつつ、心にくるものがあるのも、また事実である。
だが、それにしても、企画開発部の面々が騒がしい気がした。
何事かあったのだろうか、と思いつつ、無視されている真奈美が話しかけても答えは返ってこないだろう。
気になった真奈美は、長谷川のもとへ歩み寄った。
「なにかあったの?」と、小声で尋ねる。
「ああ、冴原さん……実は……」
長谷川が声を潜めて話した内容はこうである。
世界屋製菓とマルナガヤ、ライバル企業同士の争いが激化した。
その原因は、マルナガヤが世界屋製菓から情報を盗まれ、商品アイデアを何度も被せられていることからスパイがいると断定、世界屋製菓を訴えようとする動きがあるのだという。
「え? 世界屋製菓がマルナガヤを訴えるんじゃなくて? 逆なの?」
「どうにも、マルナガヤのほうも商品をパクられてるという認識らしいんですよね。向こうは証拠をつかんでるのかも、どこまで本気なのかも分かりませんけど」
昨日は遅くまで鷹夜のマンションにいたせいか、長谷川は大きな欠伸をしながら肩をすくめている。
その様子を見ながら、真奈美は途方に暮れた。
つまりは、スパイが誰か特定できないまま、ふたつの企業がさらに泥沼の争いに発展した、ということである。
できるだけ早くこの問題を解決しなければ、鷹夜との仲もさらに引き裂かれてしまう可能性があるわけだ。
――そうだ。鷹夜さんに頼まれていた調べ物をしなきゃ。
真奈美はうつむきかけていた顔を上げる。その目は真実を突き止めようと鋭い光を放っていた。
自らの手で犯人を見つけ出し、世界屋製菓とマルナガヤの仲違いを解決する。
それが真奈美に課せられたミッションであった。
「あのね、長谷川くん。一緒に調べるの手伝ってほしいことがある」
思い切って長谷川に依頼してみると、彼は快く引き受けてくれた。
残業を装って定時後、企画開発部にふたりで残って「調べ物」をする。
「ははぁん、永井さんがそんなことを冴原さんに頼んだんですか」
「これは、世界屋製菓にいる私にしか調べられないことだから」
決意を宿した真奈美の真剣な目を見た長谷川は、少し息を吐いた。
「永井さんには、冴原さんに危ない真似をさせるなって言いたいところですけど……冴原さん、ホントに永井さんのこと好きなんだなあ」
「うん。大切な人だから」
そうハッキリと告げると、長谷川の目は寂しい色をまとう。
飼い主に構ってもらえなくなった犬のような目をしていた。
「冴原さん。俺は……」
「長谷川くん、私のこと好きでいてくれてありがとう」
真奈美は眉尻を下げて微笑む。
「でも、ごめん。その気持ちには応えられない」
「……ですよね」
がっくりと肩を落とす長谷川を見ると、真奈美は心の底から申し訳ない気分になったが、だからといって気持ちが変わるわけではない。
長谷川が懐いてくるのは可愛いし、幼顔なのも好みには刺さるが、そもそも真奈美は彼に対して恋愛的興味が一切なかった。
真奈美の最愛は、永井鷹夜ただひとりである。その事実は覆らないのだ。
「もし、気分を害したなら謝るし、調べ物にも無理に付き合わなくて大丈夫だよ」
「……な~に言ってるんですか。ちゃんと手伝いますよ。俺は冴原さんを何があっても助けるって決めてるんですからね」
長谷川の目はジトッと拗ねていたが、口元は笑みを浮かべていた。
それにつられて、真奈美も思わず微笑んでしまう。
「それじゃ、サクッと調べちゃいましょう。俺たち以外誰もいないし、今なら『あの人』の机もゆっくり見られますよ」
「そうね。手早く調べて、決定的な証拠を見つけないと」
真奈美と長谷川は、企画開発部に誰も訪れないのを確認しながら、「調べ物」を進めていった。
「これは……」
「やっぱり、そうなのね……」
そうして、とうとう犯人の尻尾をつかんだ真奈美は、スマホを取り出し、電話をかける。
「鷹夜さん、見つけました。鷹夜さんの思った通り……」
『すぐにお迎えに参ります』
真奈美が通話を切ると、長谷川が「冴原さん。俺はここに残ります」と提案した。
「残業をしている人間がいれば、冴原さんが部屋を漁っていたとは誰も思わないはず。タイムカードも一番最後に会社を出ることにします」
「わかった。ありがとう、長谷川くん。あなたには本当に助けられた」
真奈美が深々と頭を下げると、「いいから、早く行って」と長谷川に急かされ、彼女は身支度を整えて会社を飛び出す。
玄関前には黒塗りの車が停まり、運転席の鷹夜が手を振っていた。
「真奈美さん、こちらです!」
マルナガヤの社員が世界屋製菓の社屋付近に来ていると分かれば騒ぎになる。真奈美は素早く後部座席に乗り込んだ。
すぐに車が走り出し、真奈美は「どちらへ?」と鷹夜に尋ねる。
「ひとまず、落ち着いて話ができる場所まで移動します。こちらの方にも詳しい事情を説明しませんと」
そう言われて、真奈美は初めて、助手席に誰かが座っていることに気付いた。
「そちらの方は……?」
「冴原真奈美さんですね? 鷹夜よりお噂はかねがね伺っております」
助手席の男が振り返り、真奈美は「あっ」と息を呑む。
そこにいたのは――レストランや展示会で見た、あの顔。
マルナガヤの社長だった。
〈続く〉
「おはようございます」
真奈美はいつもどおり、世界屋製菓の企画開発部に出勤する。
彼女がマルナガヤの社長秘書と付き合っているという噂が広まってから、職場の空気は一変した。
挨拶は無視されるか、せいぜい会釈が返ってくる程度。それが日常になっていた。
それを気にしないようにしようとは思いつつ、心にくるものがあるのも、また事実である。
だが、それにしても、企画開発部の面々が騒がしい気がした。
何事かあったのだろうか、と思いつつ、無視されている真奈美が話しかけても答えは返ってこないだろう。
気になった真奈美は、長谷川のもとへ歩み寄った。
「なにかあったの?」と、小声で尋ねる。
「ああ、冴原さん……実は……」
長谷川が声を潜めて話した内容はこうである。
世界屋製菓とマルナガヤ、ライバル企業同士の争いが激化した。
その原因は、マルナガヤが世界屋製菓から情報を盗まれ、商品アイデアを何度も被せられていることからスパイがいると断定、世界屋製菓を訴えようとする動きがあるのだという。
「え? 世界屋製菓がマルナガヤを訴えるんじゃなくて? 逆なの?」
「どうにも、マルナガヤのほうも商品をパクられてるという認識らしいんですよね。向こうは証拠をつかんでるのかも、どこまで本気なのかも分かりませんけど」
昨日は遅くまで鷹夜のマンションにいたせいか、長谷川は大きな欠伸をしながら肩をすくめている。
その様子を見ながら、真奈美は途方に暮れた。
つまりは、スパイが誰か特定できないまま、ふたつの企業がさらに泥沼の争いに発展した、ということである。
できるだけ早くこの問題を解決しなければ、鷹夜との仲もさらに引き裂かれてしまう可能性があるわけだ。
――そうだ。鷹夜さんに頼まれていた調べ物をしなきゃ。
真奈美はうつむきかけていた顔を上げる。その目は真実を突き止めようと鋭い光を放っていた。
自らの手で犯人を見つけ出し、世界屋製菓とマルナガヤの仲違いを解決する。
それが真奈美に課せられたミッションであった。
「あのね、長谷川くん。一緒に調べるの手伝ってほしいことがある」
思い切って長谷川に依頼してみると、彼は快く引き受けてくれた。
残業を装って定時後、企画開発部にふたりで残って「調べ物」をする。
「ははぁん、永井さんがそんなことを冴原さんに頼んだんですか」
「これは、世界屋製菓にいる私にしか調べられないことだから」
決意を宿した真奈美の真剣な目を見た長谷川は、少し息を吐いた。
「永井さんには、冴原さんに危ない真似をさせるなって言いたいところですけど……冴原さん、ホントに永井さんのこと好きなんだなあ」
「うん。大切な人だから」
そうハッキリと告げると、長谷川の目は寂しい色をまとう。
飼い主に構ってもらえなくなった犬のような目をしていた。
「冴原さん。俺は……」
「長谷川くん、私のこと好きでいてくれてありがとう」
真奈美は眉尻を下げて微笑む。
「でも、ごめん。その気持ちには応えられない」
「……ですよね」
がっくりと肩を落とす長谷川を見ると、真奈美は心の底から申し訳ない気分になったが、だからといって気持ちが変わるわけではない。
長谷川が懐いてくるのは可愛いし、幼顔なのも好みには刺さるが、そもそも真奈美は彼に対して恋愛的興味が一切なかった。
真奈美の最愛は、永井鷹夜ただひとりである。その事実は覆らないのだ。
「もし、気分を害したなら謝るし、調べ物にも無理に付き合わなくて大丈夫だよ」
「……な~に言ってるんですか。ちゃんと手伝いますよ。俺は冴原さんを何があっても助けるって決めてるんですからね」
長谷川の目はジトッと拗ねていたが、口元は笑みを浮かべていた。
それにつられて、真奈美も思わず微笑んでしまう。
「それじゃ、サクッと調べちゃいましょう。俺たち以外誰もいないし、今なら『あの人』の机もゆっくり見られますよ」
「そうね。手早く調べて、決定的な証拠を見つけないと」
真奈美と長谷川は、企画開発部に誰も訪れないのを確認しながら、「調べ物」を進めていった。
「これは……」
「やっぱり、そうなのね……」
そうして、とうとう犯人の尻尾をつかんだ真奈美は、スマホを取り出し、電話をかける。
「鷹夜さん、見つけました。鷹夜さんの思った通り……」
『すぐにお迎えに参ります』
真奈美が通話を切ると、長谷川が「冴原さん。俺はここに残ります」と提案した。
「残業をしている人間がいれば、冴原さんが部屋を漁っていたとは誰も思わないはず。タイムカードも一番最後に会社を出ることにします」
「わかった。ありがとう、長谷川くん。あなたには本当に助けられた」
真奈美が深々と頭を下げると、「いいから、早く行って」と長谷川に急かされ、彼女は身支度を整えて会社を飛び出す。
玄関前には黒塗りの車が停まり、運転席の鷹夜が手を振っていた。
「真奈美さん、こちらです!」
マルナガヤの社員が世界屋製菓の社屋付近に来ていると分かれば騒ぎになる。真奈美は素早く後部座席に乗り込んだ。
すぐに車が走り出し、真奈美は「どちらへ?」と鷹夜に尋ねる。
「ひとまず、落ち着いて話ができる場所まで移動します。こちらの方にも詳しい事情を説明しませんと」
そう言われて、真奈美は初めて、助手席に誰かが座っていることに気付いた。
「そちらの方は……?」
「冴原真奈美さんですね? 鷹夜よりお噂はかねがね伺っております」
助手席の男が振り返り、真奈美は「あっ」と息を呑む。
そこにいたのは――レストランや展示会で見た、あの顔。
マルナガヤの社長だった。
〈続く〉