社長秘書に甘く溶かされて

第5話 暗闇を恐れて

 その夜、夏の嵐が都市を覆った。
 窓ガラスを激しく叩く風、弾ける雨粒の音が室内まで響く。
 時折、雷が空を裂き、カーテン越しにも青白い閃光が走った。
 重くのしかかる低気圧に、部屋の空気まで沈むようだった。

「すごい風ですね……」

 真奈美はカーテンを少しだけ開けて、外の闇を見つめている。
 台風は真奈美と鷹夜の暮らしている都市を飲み込むようにすっぽりと覆って、容赦なく強い雨と風を窓に叩きつけていた。
 7月の週末、真奈美のマンションには鷹夜がいつも通り訪れており、その夜は宿泊していく予定である。

「こんな不安な夜に真奈美さんをひとりにさせなくて良かった」

「イケメンってそういうセリフさらっと出てくるものなんですか?」

 真奈美は素で答えてしまったが、本心では鷹夜の言葉はありがたく受け取っていた。
 ひとりきりで台風の夜を過ごすのは、やはり少しだけ心細かったのである。
 居間のソファで隣り合って座り、「テレビでも見ましょうか」とリモコンを取るためにローテーブルに手を伸ばしたときだった。
 ドンッ! ――轟音とともに稲妻が走った瞬間、部屋が真っ暗になる。
 ついさっきまで灯っていた明かりが、まるで飲み込まれるように消えた。

「わ、停電」

 真奈美は思わず間の抜けた声を発してしまった。
 隣に鷹夜がいてくれるおかげだろうか、思ったほど恐怖は感じない。

「ちょっと懐中電灯取ってきますね」

 スマホのライトをつけて、懐中電灯の入っている棚の引き出しへ向かおうとした、そのときである。
 不意に、真奈美の腕を掴む手があった。
 それは当然、同じ部屋、隣に座っている鷹夜のものであるのだが。

「……鷹夜さん?」

 その握力の強さに驚く。
 鷹夜は決して暗闇に乗じて真奈美に乱暴を働くような男ではない。
 だが、その手ははっきりと震えていた。
 指先がかすかに痙攣するように震え、腕を伝う振動が真奈美の肌にまで感じられる。
 彼の呼吸も乱れ、小さく浅い息が途切れ途切れに漏れていた。
 まるで、肺の使い方を忘れたかのような呼吸。
 吸うたびに細切れの空気が喉を擦り、吐くたびにかすれた音が漏れる。
 真奈美は立ち上がろうとするのをやめて、スマホの画面で照らして鷹夜の顔を確認する。

 彼の顔は表情を失っており、明かりが少ないのでよく見えないが、青ざめているような気がした。
 そして、身体をガタガタと震わせている。呼吸も浅く荒い。
 尋常ではない、と思った真奈美は「どうしたんですか」と彼の背中をさすった。
 鷹夜は答えない。鷹夜の指が、真奈美の腕を強く握ったまま、ゆっくりとずれていく。
 まるで頼ることを躊躇うかのように、一度は力を緩める。
 ほんの一瞬の迷いのあと、鷹夜は崩れ落ちるように真奈美の身体へしがみついた。
 顔をうずめ、肩を震わせながら、子供のようにしがみつく。
 まるで、暗闇から逃れるために唯一の拠り所を求めるように。
 抱きつかれて驚きはしたが、真奈美はそのまま停電が復旧するまで鷹夜の背中を撫で続けていた。

 やがて再び電気がつくが、鷹夜はしばらく黙って真奈美を離さない。
 呼吸は落ち着いてきた気がするが、まだ少し小刻みに震えている。

「大丈夫ですか、鷹夜さん」

 声を掛けると、やっと彼は真奈美から身体を離した。

「す、すみません……取り乱してしまいました」

 鷹夜はどこかオロオロとしていて、気恥ずかしいのか気まずいのか、視線を床に泳がせる。
 その様子を不審に思いつつ、真奈美は優しく問いかけた。

「もしかして、暗いところ、怖いんですか?」

 そういえば、鷹夜においしくいただかれるときは、いつも電気をつけたままだと思い当たる。
 単に消す余裕もないのかと思いきや、もしや電気を消したくなかったのだろうか。
 鷹夜は真奈美の質問にも、しばらく視線を宙にさまよわせて、どう答えたらいいか悩んでいる様子だった。
 しかし、やがてぎゅっと固く目を閉じ、観念したようにうなずく。

「まあ……はい。そうですね……」

「なにか理由とかきっかけとかあるんですか?」

 真奈美がそう尋ねてしまうほどには、あまりにも暗闇に対しての怯えようが普通のものではなかった。
 あんなに震えて、脂汗まで噴き出るようでは日常生活に支障をきたしてしまうのではないだろうか。
 だが、鷹夜はその理由や原因については頑として口を割ろうとはしない。

「いえ、言いたくないなら無理に言わなくていいんですけど」

「……すみません。今は、まだ……。気持ちの整理がついたら、必ず話します」

 眉根を寄せながら苦しげに一言一句をぽつりぽつりと口から絞り出す鷹夜は、とても辛そうだった。
 彼の過去に何があったのだろう、と真奈美は思わずにはいられない。
 それでも、彼が打ち明けてもいいと決めるまでは待とうと思う。

 そう考えていると、不意に真奈美の胸にもたれかかるように、鷹夜が抱きついてきた。

「……すみません。僕、精神的に参っているみたいで……。ちょっとだけ、甘えてもいいですか……?」

 かすかに目をうるませながら真奈美の顔を見上げている鷹夜は、その顔立ちも相まって幼い少年に見える。
 真奈美はうなずきながら、鷹夜の頬を撫でた。

「鷹夜さんって可愛いですね」

 そう口にすれば、彼はほのかに頬を赤らめて、「あまり頼りないと思われても心外ですが……」と少しすねたような声を出す。
 それすらも愛らしく、真奈美は笑って優しく包み込むように抱きしめた。

 ――このとき、真奈美はまだ知らなかったのだ。
 鷹夜がこの暗闇の中で、どれほどの時間を耐え、どれほどの恐怖を刻みつけられてきたのかを。
 そして、その傷が、今もなお彼を縛り続けていることを。

〈続く〉
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