社長秘書に甘く溶かされて
第7話 展示会の悪夢
世界屋製菓は9月の展示会に向けて着々と準備を進め、いよいよプレゼンテーションの日が迫ってきていた。
日曜の午前7時、業界の関係者が一堂に会するという巨大な会場を見上げると、なんだか現実感がないとともに、緊張感も高まる。
「冴原さん、俺達のお菓子、通用するでしょうか」
後輩の長谷川が不安そうな顔をするが、その直後に狸山課長が彼の肩を抱いた。
「安心しろよ、そのために俺もついてきたんだからな。展示会は未経験の冴原や長谷川たちだけに任せておいたら心配だが、俺がいれば大船に乗った気で任せておけ」
――狸山課長のたびたび口にする「大船」は、実は泥舟では、という噂は彼の「狸」という名字から連想され、企画開発部ではもっぱらの話のネタであるが、今それを言う場面ではない。
真奈美は空気を読んで、微笑むに留めることにした。
展示会場に入ると、他の企業も展示の準備で忙しそうに立ち回っている。
展示会の開催時間は朝の10時から夕方の16時まで。プレゼンテーションが始まるのは13時からだ。
「俺達も早く準備をしよう」と狸山課長に声をかけられ、展示の支度に入る。
持ち込んだお菓子をどう見栄え良くディスプレイするか、社内で綿密に打ち合わせはした。
マカロン型のクッキーは厳重に梱包材に守られ、崩れることなく美しい形を保っている。
ふと、竹のような爽やかな香りが鼻をくすぐった。
それは嗅ぎ慣れた香水の香りだ。
視線を上げると、彼――鷹夜も真奈美に気づいていたようだった。驚いたように目を丸くしている。
声をかけるべきか迷った。ここにいるということは、彼もこの展示会に用があるのだろう。他の企業の人間と話すのはあまりよくないのでは。
迷っているうちに、鷹夜は軽く会釈をすると、スッと視線をそらし、どこかへ歩き去っていった。
そうだよな、と真奈美は思う。彼だって仕事であれば、いくら真奈美が相手でも挨拶もできない状況はある。
あとで合流して夕食にでも誘おう、と思いながら、真奈美はそのときは大して気にせず、準備を進めていった。
事件はプレゼンテーションのときに起こることになる。
午前中は順調に商談を進め、世界屋製菓のブースにやってきたバイヤーやメディア関係者と和やかに会話を楽しんでいた。
その商談客たちは狸山課長と顔見知りらしく、課長はにこやかに話に花を咲かせている。
「課長、さすが大船に乗った気で、というだけはありますね」と長谷川がこそこそ真奈美に話しかけるのを、彼女は微笑みで誤魔化した。
しかし13時のプレゼンテーション。世界屋製菓の1つ前があのマルナガヤだったのだ。
「弊社の新商品はマカロンをベースにしたクッキーです。この商品はクッキー生地を使うことで従来のマカロンよりも形が崩れにくく――」
……やられた、と思った。
間違いない、マルナガヤはどこからか世界屋製菓の情報を盗んできている、と真奈美の周りの誰もが思ったのだ。
長谷川は顔を青くしているし、狸山課長は怒りからだろうか、顔を真赤にしている。
このあとで世界屋製菓が同じ商品を発表すれば、最悪の展開が簡単に予想できた。
だが、真奈美にとって想定外だったのは、それだけではない。
「――どうして、鷹夜さんが……?」
思考が止まる。心臓が強く跳ねるのがわかる。
いや、そんなはずはない。彼は世界屋製菓の敵だった?
目の前に立つ鷹夜の姿が、遠く感じられた。
彼はこちらに一瞥もくれない。
マルナガヤのプレゼンテーションは社長自らが行っており、その社長の隣には。
秘書として、鷹夜が控えていたのである。
永井鷹夜は、ライバル企業マルナガヤの社長秘書だ。
〈続く〉
日曜の午前7時、業界の関係者が一堂に会するという巨大な会場を見上げると、なんだか現実感がないとともに、緊張感も高まる。
「冴原さん、俺達のお菓子、通用するでしょうか」
後輩の長谷川が不安そうな顔をするが、その直後に狸山課長が彼の肩を抱いた。
「安心しろよ、そのために俺もついてきたんだからな。展示会は未経験の冴原や長谷川たちだけに任せておいたら心配だが、俺がいれば大船に乗った気で任せておけ」
――狸山課長のたびたび口にする「大船」は、実は泥舟では、という噂は彼の「狸」という名字から連想され、企画開発部ではもっぱらの話のネタであるが、今それを言う場面ではない。
真奈美は空気を読んで、微笑むに留めることにした。
展示会場に入ると、他の企業も展示の準備で忙しそうに立ち回っている。
展示会の開催時間は朝の10時から夕方の16時まで。プレゼンテーションが始まるのは13時からだ。
「俺達も早く準備をしよう」と狸山課長に声をかけられ、展示の支度に入る。
持ち込んだお菓子をどう見栄え良くディスプレイするか、社内で綿密に打ち合わせはした。
マカロン型のクッキーは厳重に梱包材に守られ、崩れることなく美しい形を保っている。
ふと、竹のような爽やかな香りが鼻をくすぐった。
それは嗅ぎ慣れた香水の香りだ。
視線を上げると、彼――鷹夜も真奈美に気づいていたようだった。驚いたように目を丸くしている。
声をかけるべきか迷った。ここにいるということは、彼もこの展示会に用があるのだろう。他の企業の人間と話すのはあまりよくないのでは。
迷っているうちに、鷹夜は軽く会釈をすると、スッと視線をそらし、どこかへ歩き去っていった。
そうだよな、と真奈美は思う。彼だって仕事であれば、いくら真奈美が相手でも挨拶もできない状況はある。
あとで合流して夕食にでも誘おう、と思いながら、真奈美はそのときは大して気にせず、準備を進めていった。
事件はプレゼンテーションのときに起こることになる。
午前中は順調に商談を進め、世界屋製菓のブースにやってきたバイヤーやメディア関係者と和やかに会話を楽しんでいた。
その商談客たちは狸山課長と顔見知りらしく、課長はにこやかに話に花を咲かせている。
「課長、さすが大船に乗った気で、というだけはありますね」と長谷川がこそこそ真奈美に話しかけるのを、彼女は微笑みで誤魔化した。
しかし13時のプレゼンテーション。世界屋製菓の1つ前があのマルナガヤだったのだ。
「弊社の新商品はマカロンをベースにしたクッキーです。この商品はクッキー生地を使うことで従来のマカロンよりも形が崩れにくく――」
……やられた、と思った。
間違いない、マルナガヤはどこからか世界屋製菓の情報を盗んできている、と真奈美の周りの誰もが思ったのだ。
長谷川は顔を青くしているし、狸山課長は怒りからだろうか、顔を真赤にしている。
このあとで世界屋製菓が同じ商品を発表すれば、最悪の展開が簡単に予想できた。
だが、真奈美にとって想定外だったのは、それだけではない。
「――どうして、鷹夜さんが……?」
思考が止まる。心臓が強く跳ねるのがわかる。
いや、そんなはずはない。彼は世界屋製菓の敵だった?
目の前に立つ鷹夜の姿が、遠く感じられた。
彼はこちらに一瞥もくれない。
マルナガヤのプレゼンテーションは社長自らが行っており、その社長の隣には。
秘書として、鷹夜が控えていたのである。
永井鷹夜は、ライバル企業マルナガヤの社長秘書だ。
〈続く〉