社長秘書に甘く溶かされて
第9話 世界屋製菓を救うため?
真奈美は鷹夜との関係に悩んでいた。
鷹夜はライバル企業、マルナガヤの社長秘書である。
真奈美も気をつけてはいるのだが、うっかり気を抜いて、自分の会社の話をしないとも限らない。そうなれば情報漏洩、ライバル企業に筒抜けになるという最悪の事態はまぬがれない。
真奈美は展示会での事件以降、下手な雑談もできない状態だった。
もちろん、鷹夜も真奈美が悩んでいるのを察している。
「僕は真奈美さんのお勤め先の機密を知っても、絶対に情報を横流しなどしません。神に誓ってもいいですよ」
しかし、人間、口先だけならなんとでも言えるもので……。
真奈美は正直なところ、それを信じてもいいのか、疑心暗鬼の状態のままズルズルと付き合いを続けており、ふたりの間には微妙な空気が流れていた。
そんなある日、世界屋製菓に出勤した真奈美は上司の狸山課長に呼び出される。
「なにか御用でしょうか」
「まあ、そこに座ってくれ」
ふたりきりで会議室の広い空間に入り、隣り合って座った。
狸山課長は内緒話をするように真奈美の至近距離に迫る。
課長のたばこ臭い息がかかって、思わず眉をひそめた。
「実はな、俺はいいことを考えたんだよ」
「はあ……」
何を言い出すのだろう、と考える間もなく、狸山課長はとんでもないことを言い放ったのだ。
「冴原、お前、逆スパイをやってみないか?」
「はい?」
真奈美は、思わず聞き返した。
狸山課長の『名案』によれば、真奈美が鷹夜から逆にマルナガヤの情報を盗み出せ、ということである。
冗談かと思った。しかし狸山課長の目は、笑っていない。
「お断りします」
すぐに席を立とうとするが、「まあ待て」と腕を掴まれる。
その手は、思ったよりも強かった。
「……お前、今の状況わかってるよな?」
その低い声に、背筋が冷える。
「このままじゃ、お前は『裏切り者』のままだ。逆スパイになれば、潔白が証明できるし、むしろ英雄だ。それとも――」
少し間を置いて、狸山課長はにやりと笑った。
「『情報漏洩の犯人』として、クビになるか?」
そう、あの展示会での事件以降、真奈美は「あの悪名高きマルナガヤの社長秘書と通じている」という噂を立てられ、同僚からも遠巻きに見られ、腫れ物に触るような扱いを受けている。
気を使ってくれるのは、あの日プレゼンに一緒に来ていて事情を知っている後輩の長谷川くらいで、ほぼ孤立無援の状態は、さすがに真奈美の心にくるものがあった。
「お前がマルナガヤの情報を盗んでくれば、みんなもうお前を迫害しなくなる。なんならその秘書もこちらに抱き込んで、スパイにしてしまえばいい。世界屋製菓を救えるのは、冴原、お前だけなんだよ」
真奈美は頭がパンクしそうになる。
断固拒否するべきなのに、口から出たのは「……少し、考えさせてください」という言葉だった。
狸山課長から解放されて、ふらふらと休憩室で缶コーヒーを飲みながら、しばらくぼうっとしてしまう。
仕事も忙しい日々が続いた。
展示会では散々な評判だったマカロンクッキーだが、なんとか買い手がついて増産することになったのだ。
お菓子の試作が終われば、あとは真奈美の本来の仕事である販売後の分析作業。
商品の販売後の動向を監視、アンケートや顧客のフィードバック、報告書をまとめて……。
真奈美は何も考えたくなくて、ただひたすらに仕事に打ち込んだ。
鷹夜にスパイなんかさせるわけにはいかない。
しかし、狸山課長には逆らえなかった。
板挟みに苦しみ、無理やり仕事を詰め込んで忙しく働いて、疲れ切って家に帰る。
自宅マンションに帰れば、合鍵を持っている鷹夜が家に上がり込んでシチューを作っていた。
「お疲れ様です、真奈美さん」
鷹夜が、シチューをよそいながら微笑んでいる。
(……こんなに疲れているのに、彼が家にいることを『安心』と思えない)
どこか、胸の奥がざわつく。
鷹夜が差し出してくれた愛情たっぷりの料理を、極度の疲労と緊張から会話をするゆとりもなく、無言で平らげる。
そのままシャワーを浴びて戻ってくれば、鷹夜は眉尻を下げて微笑んでいた。
「あの……夕食、お気に召しませんでした……?」
彼の声は、本当に悲しそうだった。
だけど――。
(……本当に、悲しい? それとも演技?)
真奈美にはもう考える余裕がない。
髪も乾かさないまま、ベッドに倒れ込む。
「あっ、真奈美さん、ダメですよ起きてください! 髪が傷みますから、せめて僕にドライヤーかけさせてください!」
慌てたような鷹夜の声が遠のいて、意識を失うように眠った。
〈続く〉
鷹夜はライバル企業、マルナガヤの社長秘書である。
真奈美も気をつけてはいるのだが、うっかり気を抜いて、自分の会社の話をしないとも限らない。そうなれば情報漏洩、ライバル企業に筒抜けになるという最悪の事態はまぬがれない。
真奈美は展示会での事件以降、下手な雑談もできない状態だった。
もちろん、鷹夜も真奈美が悩んでいるのを察している。
「僕は真奈美さんのお勤め先の機密を知っても、絶対に情報を横流しなどしません。神に誓ってもいいですよ」
しかし、人間、口先だけならなんとでも言えるもので……。
真奈美は正直なところ、それを信じてもいいのか、疑心暗鬼の状態のままズルズルと付き合いを続けており、ふたりの間には微妙な空気が流れていた。
そんなある日、世界屋製菓に出勤した真奈美は上司の狸山課長に呼び出される。
「なにか御用でしょうか」
「まあ、そこに座ってくれ」
ふたりきりで会議室の広い空間に入り、隣り合って座った。
狸山課長は内緒話をするように真奈美の至近距離に迫る。
課長のたばこ臭い息がかかって、思わず眉をひそめた。
「実はな、俺はいいことを考えたんだよ」
「はあ……」
何を言い出すのだろう、と考える間もなく、狸山課長はとんでもないことを言い放ったのだ。
「冴原、お前、逆スパイをやってみないか?」
「はい?」
真奈美は、思わず聞き返した。
狸山課長の『名案』によれば、真奈美が鷹夜から逆にマルナガヤの情報を盗み出せ、ということである。
冗談かと思った。しかし狸山課長の目は、笑っていない。
「お断りします」
すぐに席を立とうとするが、「まあ待て」と腕を掴まれる。
その手は、思ったよりも強かった。
「……お前、今の状況わかってるよな?」
その低い声に、背筋が冷える。
「このままじゃ、お前は『裏切り者』のままだ。逆スパイになれば、潔白が証明できるし、むしろ英雄だ。それとも――」
少し間を置いて、狸山課長はにやりと笑った。
「『情報漏洩の犯人』として、クビになるか?」
そう、あの展示会での事件以降、真奈美は「あの悪名高きマルナガヤの社長秘書と通じている」という噂を立てられ、同僚からも遠巻きに見られ、腫れ物に触るような扱いを受けている。
気を使ってくれるのは、あの日プレゼンに一緒に来ていて事情を知っている後輩の長谷川くらいで、ほぼ孤立無援の状態は、さすがに真奈美の心にくるものがあった。
「お前がマルナガヤの情報を盗んでくれば、みんなもうお前を迫害しなくなる。なんならその秘書もこちらに抱き込んで、スパイにしてしまえばいい。世界屋製菓を救えるのは、冴原、お前だけなんだよ」
真奈美は頭がパンクしそうになる。
断固拒否するべきなのに、口から出たのは「……少し、考えさせてください」という言葉だった。
狸山課長から解放されて、ふらふらと休憩室で缶コーヒーを飲みながら、しばらくぼうっとしてしまう。
仕事も忙しい日々が続いた。
展示会では散々な評判だったマカロンクッキーだが、なんとか買い手がついて増産することになったのだ。
お菓子の試作が終われば、あとは真奈美の本来の仕事である販売後の分析作業。
商品の販売後の動向を監視、アンケートや顧客のフィードバック、報告書をまとめて……。
真奈美は何も考えたくなくて、ただひたすらに仕事に打ち込んだ。
鷹夜にスパイなんかさせるわけにはいかない。
しかし、狸山課長には逆らえなかった。
板挟みに苦しみ、無理やり仕事を詰め込んで忙しく働いて、疲れ切って家に帰る。
自宅マンションに帰れば、合鍵を持っている鷹夜が家に上がり込んでシチューを作っていた。
「お疲れ様です、真奈美さん」
鷹夜が、シチューをよそいながら微笑んでいる。
(……こんなに疲れているのに、彼が家にいることを『安心』と思えない)
どこか、胸の奥がざわつく。
鷹夜が差し出してくれた愛情たっぷりの料理を、極度の疲労と緊張から会話をするゆとりもなく、無言で平らげる。
そのままシャワーを浴びて戻ってくれば、鷹夜は眉尻を下げて微笑んでいた。
「あの……夕食、お気に召しませんでした……?」
彼の声は、本当に悲しそうだった。
だけど――。
(……本当に、悲しい? それとも演技?)
真奈美にはもう考える余裕がない。
髪も乾かさないまま、ベッドに倒れ込む。
「あっ、真奈美さん、ダメですよ起きてください! 髪が傷みますから、せめて僕にドライヤーかけさせてください!」
慌てたような鷹夜の声が遠のいて、意識を失うように眠った。
〈続く〉