政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

はじめましての結婚相手

春の風が頬をなでた。けれどその柔らかさに心を委ねる余裕は、私にはなかった。

「咲、もう行くぞ」

父に促され、私は静かに頷いた。
背筋を伸ばし、濃紺の着物の裾を整える。きっちり結われた髪が、少しだけ締めつけるように痛かった。

今日、私は“結婚相手”と顔を合わせる。
政略結婚。それ以外の言葉は見つからなかった。

両家の取り決め。家業の立て直しのために、私は名前も顔も知らない御曹司の元に嫁ぐ。
恋愛も、感情も、そこには存在しない。あるのは打算と条件だけ。
そう自分に言い聞かせて、料亭の暖簾をくぐった。

「朝比奈尚紀さんは、朝比奈グループの御曹司。今は専務を務めておられるそうだ。お若いが、かなりのやり手らしい」

数日前、父からそう説明された。
名前だけではぴんとこなかったが、“冷静で感情を表に出さないタイプ”だと耳にし、ますます不安になったのを覚えている。

私は人付き合いが得意な方ではない。
義母からは「咲は育ちがよすぎて、普通の感覚がない」と小言ばかり言われてきた。
実の母を亡くしてから、継母とどうにか表面上の関係を保ってきたけれど、心が通っているとは言いがたい。

だからこそ、今日の顔合わせも“完璧にこなす”ことを自分に課していた。
恥をかかせないように、余計なことは言わず、ただ丁寧に、静かに。
感情はしまって、仮面をかぶる。それが私にできる精一杯だった。

襖が静かに開いた。空気が、すっと張り詰める。

「お待たせしました。朝比奈尚紀でございます」

低く、よく通る声。
座敷に足を踏み入れた彼は、白のシャツに濃いグレーのスーツを纏い、姿勢よく頭を下げる。

背が高く、均整の取れた身体。整った顔立ち。けれど表情はほとんど崩れない。
まるで何かを測っているような目をしていた。

「初めまして、御手洗咲さん。どうぞよろしくお願いいたします」

そう言って差し出された手を見て、私は一瞬ためらい——すぐに小さく会釈して、応じた。

「……よろしくお願いいたします」

心の奥がざわめいたわけではない。むしろ、何も感じなかったことに安堵すら覚えた。
初対面の相手に過剰な感情を抱かなくて済んだことに、少しだけほっとした。

二人並んで座ったあと、両家の大人たちは早速話を始めた。
財産の取り決め、結婚後の生活、今後の名義変更の件まで——まるで会議のように進められる。

私は黙ってそれを聞いていた。
尚紀もまた、必要最低限の言葉しか発さない。けれどその口調は終始穏やかで、無駄がなかった。

(感情を出さない、ってこういう人のことを言うのね……)

不思議と嫌悪感はなかった。
どちらかといえば、徹底した距離感に少し居心地の良さを感じてしまっていた。

「咲」

父の声で、私ははっとして顔を上げる。

「お前の意思も、改めて聞いておこう。この結婚話、進めていいな?」

視線が集まる。義母も穏やかな笑みを浮かべていた。けれどその目は、どこか冷たかった。

尚紀が横目で私を見たような気がした。
その一瞬に、何かを試されている気がして、私は姿勢を正す。

「はい。異存はありません」

これが、私の選んだ道。
誰かのために生きると決めた、私の覚悟。

その瞬間、尚紀の口元がほんのわずかに動いた。
けれどそれが笑みだったのかどうかは、正直わからなかった。

この人と夫婦になる。
名前も顔も知らなかった相手と、これから“夫婦”として暮らしていく。

感情は要らない。愛情も期待しない。
必要なのは、互いにとってメリットのある関係であることだけ。

それが、この結婚のルール。

私は深く息を吐いた。
そして、その隣に座る男が何を思っているのか、全く読めないことに、ほんの少しだけ不安を覚えた。
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