政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

再会を願ったのは、俺の方だった

——“咲”という名前を聞いたとき。
胸の奥で、何かがひっそりと音を立てた。

政略結婚の話が舞い込んできたとき、父の側近たちは当然のように条件面だけを見て評価した。
御手洗グループ。古くから続く老舗企業。社会的な信頼と実直な経営姿勢。

だが、俺がその話に乗った理由は、別のところにあった。

名前だった。
“御手洗咲”という、その名を目にした瞬間——
二十年前の、夏の終わりを思い出した。

子どものころ、母は俺を一人で育てていた。

小さな家。古びた団地。忙しい仕事。
俺は、母の邪魔をしないように、ひとりで過ごす時間の中で「我慢すること」を覚えた。

そんな夏休みのある日、親戚が営む避暑地の別荘に、ほんの数日だけ預けられた。

その場所で出会ったのが——
咲だった。

当時はまだ幼くて、名前すらきちんとは覚えていなかった。
けれど、白いワンピースを着て、風に揺れる木の下でアイスを頬張っていた少女の姿だけは、なぜか今でも鮮明に思い出せる。

人見知りの俺に、彼女は笑いながら話しかけてきた。

「ひとり?一緒にあそぼうよ」

その言葉が、どれだけ救いだったか。

たった数日。
けれど、あの時間だけは特別だった。

雨上がりの森。秘密の木の下。
二人で名前を呼び合って、“また会おうね”と指切りをした。

俺はそのとき、幼いながらに、強く思っていた。

——この子にまた会いたい。必ず迎えに行こう。

でも、夏が終わるころ、咲は事故に巻き込まれた。

幸い命に別状はなかったと聞いたが、すぐに実家に戻され、その後、消息が分からなくなった。

それから、俺の母が再婚し、名字が変わった。

朝比奈尚紀という名は、もともと“俺”の名前ではなかった。

新しい家。新しい父。新しい生活。

それは確かに恵まれたものだった。
けれど、どれだけ環境が変わっても、あの夏の記憶だけは、心の奥にずっと残っていた。

“咲”という名前を、何度も検索した。
手紙の宛先も探した。だけど、子どもだった俺には限界があった。

そして年月が過ぎた頃、ふと耳にしたのだ。

——御手洗グループの令嬢が、朝比奈家との縁談に挙がっている、と。

そのとき、心が静かにざわついた。

“咲”という名前。年齢も合っている。
ありえない偶然かもしれない。けれど、会ってみなければ分からない。

だからこそ、最初の顔合わせの席。
俺は、できるだけ平静を装っていた。

本当は、心臓が喉元まで跳ねていた。
けれど彼女は、俺のことを何も思い出していない様子だった。

それでもいいと思った。

会えた。
もう、それだけで十分だった。

彼女が記憶を取り戻さなくても、隣にいてくれるなら、それでいい。

けれど——

「……また、夢を見たの」

咲がぽつりとそう呟いた夜、俺の心は大きく波打った。

「名前を呼ばれた気がする。“さき”って。すごく懐かしかった」

そのとき、俺の中の何かが、静かに泣いた。

(やっぱり、君だったんだ)

記憶の奥の“咲”が、今こうして目の前にいる。
あの夏に笑ってくれた少女が、大人になっても変わらず、どこか儚げで、優しい。

俺の優しさは、演技なんかじゃない。
もう、ずっとずっと前から決まっていたことだった。

君のことを、守ろうと決めていた。
ずっと、迎えに行こうと思っていた。

だから、誰にも渡さない。

誰にも邪魔をさせない。

たとえ、君がその約束を忘れていても——
俺だけは、覚えているから。

そして今夜、咲はまた夢を見た。

俺の声を、思い出してくれる日が来ることを信じて、
俺はそっと、彼女の眠る横顔を見つめていた。

(おやすみ、咲)

心の中でそう呟いた言葉は、あの夏の日とまったく同じ響きを持っていた。
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