政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる
思い出せない約束
最近、夢を見ることが増えた。
繰り返すように、似た場面ばかりが浮かんでくる。
深い緑に包まれた木立。雨のにおい。
子どもの私が、誰かと手をつないでいる。
そして、いつも同じ声が響く。
「さき、まってて。おれ、むかえにいくから」
誰なのか、どうしてそんな言葉を交わしたのか、まるで霧がかかったように思い出せない。
でもそのたびに胸の奥がぎゅっと締めつけられて、なぜだか涙がこぼれそうになる。
(……きっと、すごく大切な人だったんだと思う)
名前も顔も思い出せないのに、忘れてはいけない気がする。
それだけが、強く心に残っていた。
「今日、実家に寄ってきてくれない?お父さまの書類を渡したいの。ついでに様子も見てきてちょうだい」
義母からそう言われて、私は彼女から預かった封筒を持って、久しぶりに実家へ足を運んだ。
父は出張中とのことで、玄関先で義母に書類を手渡した。
そのあとは、なんとなく居づらさを感じながら、帰るタイミングを探していた。
けれど、ふとした拍子に、足が止まった。
懐かしい扉。父の書斎だった。
(……久しぶりにここ入るかも)
ほんの気まぐれだった。
けれどなぜかその瞬間、扉の向こうに“何かある”ような気がした。
書斎の中は静かで、わずかに古い紙とインクの匂いが残っていた。
棚の下段に置かれた箱を何気なく開けると、布貼りのアルバムが目に入った。
手書きのラベルに「咲 こどものころ」と記されている。
私はゆっくりとそのアルバムを開いた。
七五三の写真。母と手をつないだ公園での一枚。
小学校の入学式のときの、緊張した顔。
どれも懐かしく、胸の奥を優しく刺激する。
けれど、最後のページで、指が止まった。
木々の茂る場所。見知らぬ場所で、私はひとりの男の子と並んで座っていた。
ふたりで笑い合い、そして、指を絡めて——指切りをしている。
(この子……誰?)
でも、胸の奥が強く疼いた。
(知ってる。絶対に、この子のことを知ってる)
その瞬間、ぼんやりとした記憶の断片が浮かび上がる。
アイスクリーム。雨上がりの遊歩道。木陰で交わした言葉。
「さき、まってて。……おれ、むかえにいくから」
(この子だ……)
私は震える手でその写真を持ち上げた。
咄嗟にページを閉じ、アルバムごとバッグへそっとしまい込んだ。
夕方、家に戻ると尚紀がすでに帰ってきていた。
「おかえり。早かったね」
「うん。お父さんには会えなかったんだけど……書斎に寄ったら、懐かしいものを見つけたの」
私はバッグからアルバムを取り出し、ページをめくって尚紀の隣に座る。
「これ、私が小さい頃のアルバム。でね、これが今日一番びっくりした写真」
最後のページを開いて、例の一枚を彼に見せる。
尚紀はそれに視線を落とした。
しばらく言葉を発さないまま、その写真を見つめ続ける。
(……やっぱり)
「この子、誰だと思う?」
私の問いに、尚紀はすぐには答えなかった。
けれど、その目の奥が、ごくわずかに揺れていた。
「……その子の名前、まだ思い出せない?」
「うん。でも……声は覚えてる。夢の中で、何度も呼ばれた。“さき”って」
「夢……最近、よく見るんだよな」
「うん。不思議なくらい。同じ子が、同じ言葉を繰り返すの。“また会おうね”“待ってて”って」
尚紀は何かを言いかけて、けれどそれを飲み込む。
そして、ごく静かに、優しい声で言った。
「思い出したら、教えてくれる?」
「……うん。きっと、もうすぐ思い出せる気がするから」
それは嘘ではなかった。
もう記憶は、すぐそこまで来ていた。
けれど私はまだ、目を逸らしていたのかもしれない。
その名前が、もし今、隣にいる人のものだったとしたら——
私は、どうすればいいのだろう。
繰り返すように、似た場面ばかりが浮かんでくる。
深い緑に包まれた木立。雨のにおい。
子どもの私が、誰かと手をつないでいる。
そして、いつも同じ声が響く。
「さき、まってて。おれ、むかえにいくから」
誰なのか、どうしてそんな言葉を交わしたのか、まるで霧がかかったように思い出せない。
でもそのたびに胸の奥がぎゅっと締めつけられて、なぜだか涙がこぼれそうになる。
(……きっと、すごく大切な人だったんだと思う)
名前も顔も思い出せないのに、忘れてはいけない気がする。
それだけが、強く心に残っていた。
「今日、実家に寄ってきてくれない?お父さまの書類を渡したいの。ついでに様子も見てきてちょうだい」
義母からそう言われて、私は彼女から預かった封筒を持って、久しぶりに実家へ足を運んだ。
父は出張中とのことで、玄関先で義母に書類を手渡した。
そのあとは、なんとなく居づらさを感じながら、帰るタイミングを探していた。
けれど、ふとした拍子に、足が止まった。
懐かしい扉。父の書斎だった。
(……久しぶりにここ入るかも)
ほんの気まぐれだった。
けれどなぜかその瞬間、扉の向こうに“何かある”ような気がした。
書斎の中は静かで、わずかに古い紙とインクの匂いが残っていた。
棚の下段に置かれた箱を何気なく開けると、布貼りのアルバムが目に入った。
手書きのラベルに「咲 こどものころ」と記されている。
私はゆっくりとそのアルバムを開いた。
七五三の写真。母と手をつないだ公園での一枚。
小学校の入学式のときの、緊張した顔。
どれも懐かしく、胸の奥を優しく刺激する。
けれど、最後のページで、指が止まった。
木々の茂る場所。見知らぬ場所で、私はひとりの男の子と並んで座っていた。
ふたりで笑い合い、そして、指を絡めて——指切りをしている。
(この子……誰?)
でも、胸の奥が強く疼いた。
(知ってる。絶対に、この子のことを知ってる)
その瞬間、ぼんやりとした記憶の断片が浮かび上がる。
アイスクリーム。雨上がりの遊歩道。木陰で交わした言葉。
「さき、まってて。……おれ、むかえにいくから」
(この子だ……)
私は震える手でその写真を持ち上げた。
咄嗟にページを閉じ、アルバムごとバッグへそっとしまい込んだ。
夕方、家に戻ると尚紀がすでに帰ってきていた。
「おかえり。早かったね」
「うん。お父さんには会えなかったんだけど……書斎に寄ったら、懐かしいものを見つけたの」
私はバッグからアルバムを取り出し、ページをめくって尚紀の隣に座る。
「これ、私が小さい頃のアルバム。でね、これが今日一番びっくりした写真」
最後のページを開いて、例の一枚を彼に見せる。
尚紀はそれに視線を落とした。
しばらく言葉を発さないまま、その写真を見つめ続ける。
(……やっぱり)
「この子、誰だと思う?」
私の問いに、尚紀はすぐには答えなかった。
けれど、その目の奥が、ごくわずかに揺れていた。
「……その子の名前、まだ思い出せない?」
「うん。でも……声は覚えてる。夢の中で、何度も呼ばれた。“さき”って」
「夢……最近、よく見るんだよな」
「うん。不思議なくらい。同じ子が、同じ言葉を繰り返すの。“また会おうね”“待ってて”って」
尚紀は何かを言いかけて、けれどそれを飲み込む。
そして、ごく静かに、優しい声で言った。
「思い出したら、教えてくれる?」
「……うん。きっと、もうすぐ思い出せる気がするから」
それは嘘ではなかった。
もう記憶は、すぐそこまで来ていた。
けれど私はまだ、目を逸らしていたのかもしれない。
その名前が、もし今、隣にいる人のものだったとしたら——
私は、どうすればいいのだろう。