政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

名前を口にしかけた夜

夜が深まるにつれて、空気は冷たく澄んでいた。

リビングのソファに座り、私は手のひらにアルバムを乗せたまま、ページを繰ることもできずにいた。

(どうして……今まで思い出せなかったんだろう)

指切りを交わしていた男の子の写真。
夢の中で繰り返し聞いてきた声と、その写真の中の彼の表情が、少しずつ重なってくる。

「さき、まってて。……おれ、むかえにいくから」

記憶の奥から聞こえてくるその声が、日に日に鮮明になっている。

ベッドに入っても、眠気はなかなか訪れなかった。
隣の部屋からは、尚紀の足音が時折、静かに聞こえてくる。

書斎で何か作業をしているのかもしれない。
でも、あの写真を見せたあとの尚紀の目を、私はどうしても忘れられなかった。

(尚紀さん……あの子のこと、知ってるのかな)

聞けばいいのに、聞けない。
もし違ったら。もし、私の勝手な思い込みだったら。
それが怖くて、言葉にできなかった。

時計の針が午前一時を回ったころ、私は小さな声で部屋を出た。

廊下を抜け、そっと書斎のドアをノックする。

「……起きてますか?」

少し間を置いてから、扉の向こうから応答が返ってきた。

「……咲?」

「眠れなくて……少し、話してもいい?」

「もちろん」

ドアが開き、柔らかな灯りの中に尚紀の姿が現れる。

ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を軽くまくった彼は、普段より少しだけくつろいで見えた。
その姿に、なぜか胸が締めつけられる。

「中、入って」

促されるままに足を踏み入れると、デスクの上には数冊の資料と、紅茶の入ったマグカップ。
少しだけ生活感があって、なぜか安心する。

「……ごめんなさい。邪魔だった?」

「そんなことない。咲が来てくれて、嬉しいよ」

その一言に、心臓がどくんと跳ねた。

「……ねえ」

「うん」

私は彼のほうを見て、言葉を選ぶように静かに訊いた。

「もし……もし昔、私が誰かと“約束”をしていて、それを忘れてたとしたら……どう思う?」

尚紀は驚くことなく、ただ静かに目を伏せた。

「約束を忘れるのは、仕方のないことだよ。とくに子どもだったなら、なおさら」

「でも……相手は、ずっと覚えてたら?」

「……忘れられてても、きっとその人は、君が幸せならそれでいいって思ってる」

(……前にも、同じことを言ってた)

あの夜。私の肩に額を寄せたあの日も、同じような言葉を彼は言っていた。

「……尚紀さん、誰かにそういう風に思ってたの?」

「……ああ」

「その人、今……どうしてるの?」

「俺の隣にいる」

静かに、けれどはっきりと。
彼はそう言った。

息が止まりそうになる。

「それって……」

「昔、君がまだ小さかった頃。避暑地の別荘で、たまたま数日だけ会ったんだ。……あのときのこと、君は覚えてないかもしれない。でも俺は、ずっと覚えてた」

まるで、長い夢から覚めたように、世界の輪郭がくっきりしていく。

「じゃあ……」

「咲。君が夢で聞いた“声”は、俺だったんだ」

「……名前。私の名前、呼んでた」

目の奥が熱くなる。

「“さき、まってて”って……。尚紀さん……だったの?」

尚紀は答えず、けれどゆっくりと私の手を取った。

「……本当は、もっと早く言うべきだった。でも君が忘れているって分かって、無理に思い出させたくなかった」

「どうして……そんなに私に……」

「“迎えに行く”って、約束したからだよ」

彼の声はとても静かで、でもどこまでも真っ直ぐだった。

あの夏の日、私はきっと確かに、彼に会っていた。
指切りをして、“また会おう”と笑い合った。

たった数日だったかもしれない。
でもその時間が、彼の中にずっと残っていたことが、ただ嬉しくて、どうしようもなく切なかった。

「……思い出したい。全部、ちゃんと」

そう言った私に、尚紀は小さくうなずいた。

「急がなくていい。君のペースで。……でも」

彼は手を握ったまま、そっと言った。

「これだけは、忘れないで」

「……なに?」

「俺は、もう君を二度と離さない」

その言葉に、胸の奥が熱くなる。

恋に落ちる瞬間なんて、きっともっと劇的なものだと思っていた。

でも、こんな風に、優しく包まれるような温度の中で、心が決まることもあるのだと思った。

尚紀の手が、私の頬に触れる。

近づく距離に、自然と目が閉じる。

その夜、私たちは初めて、心の距離を埋めるように——
触れた。
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