政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる
触れてはいけない記憶
料亭の個室には、静かな緊張が漂っていた。
真白の顔合わせと銘打たれたこの席は、誰の目にも“形式的な場”であることが明らかだった。
義母の狙いは、真白を持ち上げながら、咲の立場を揺さぶること。
だが尚紀は、終始穏やかな態度のまま、咲の隣に座り続けていた。
その所作のひとつひとつが、咲を守る意志を表していた。
咲もまた、逃げなかった。
尚紀の隣に、堂々と腰を据えていた。
「真白さん、本当にお綺麗ね。やっぱり御手洗のお嬢さまって感じがするわ」
見合い相手の母親が笑顔でそう言うと、義母は満足げに頷いた。
「小さい頃から礼儀はきちんと仕込んできましたから。——ね、咲?」
「……はい。真白は努力家です」
静かに微笑んだ咲に、義母がひとつ息をつくようにして視線を向けてくる。
「あなたたち姉妹も、小さい頃はそれぞれ違ったわね。真白は外に出たがる子だったけれど、咲はどちらかといえば、おとなしい子だったわ」
義母はふと懐かしむように言葉を継ぐ。
「たしか、しばらく家にこもっていた時期があったでしょう?避暑地から戻ったあとだったかしら」
咲の手が、膝の上でわずかに震えた。
(……避暑地?戻ったあと……)
思い出そうとした瞬間、胸の奥がぞわりと軋むように疼いた。
その言葉に、どこかひどく引っかかる感覚があった。
(お母さんと……どこかへ行った?でも……)
ぼんやりとした映像の端に手が届きかけるが、指先が空を掴むようにすり抜けていく。
「……あまり、覚えていません。母のことで……いろいろと、慌ただしかった気がします」
「まあ、そう。てっきり記憶に残っているものだと思っていたのだけれど」
にこやかに返す義母の声の奥に、探るような鋭さが見え隠れする。
(今の言葉……探ってる?私が、どこまで覚えているのか)
咲の背筋にひやりと冷たいものが走った。
「……失礼します。少し、席を外します」
咲は静かに席を立ち、尚紀も当然のように後に続いた。
義母の目元がわずかに強張るのが見えた。
廊下に出たふたりは、静まり返った空間の中で言葉を交わさずに歩いた。
「……咲、大丈夫か?」
「うん。でも、なんとなく変な感じ。義母の言葉が引っかかってて……」
そのときだった。
「——御手洗咲さん、ですよね?」
後方からかけられた声に、ふたり同時に振り返る。
スーツ姿の初老の男性が、控えめに帽子を取って深く頭を下げた。
「私、かつて御手洗家で運転手をしておりました。内藤と申します。……覚えておられないかもしれませんが、咲さまが幼い頃、何度かご送迎を」
「……運転手さん……」
「はい。本日たまたまこちらに寄ったところ、お姿を拝見して。……どうしても、お伝えしたいことがありました」
咲と尚紀が顔を見合わせる。その直後、内藤は低く声を落とした。
「実は——あの日の事故についてです。避暑地からの帰り道に起きた、あの悲劇のことを」
咲の呼吸が止まったように感じた。
「……私が、事故に?」
「はい。私はその日、運転をしておりませんでした」
「え……?」
「本来であれば私が担当する予定でした。けれど事故当日、今の奥様から“今日は別の者に交代してほしい”と一方的に言われ、運転を外されたのです」
「……なぜ?」
「理由は明かされませんでした。ただ、当時から妙な違和感を覚えていました。さらに事故の直前、義母様の兄上から“ブレーキに関わる部品を交換しておけ”という不自然な整備の指示があり……」
尚紀の顔が引き締まった。
「……事故は、そのブレーキが原因だった?」
「はい。車は山道でブレーキが効かず、ガードレールを超えて……」
咲の胸がひどく痛んだ。
「……母は……」
「残念ながら、即死ではありませんでしたが、病院に到着したときにはもう……」
咲は小さく息を呑んで口元を押さえた。
「私は何もできませんでした。ただ、ずっと後悔していました。あの日、私が運転していれば——と。
そして今日、お姿を見て、もう黙っていることはできないと思ったのです」
「義母は……そのとき、家に?」
「はい。“ご主人の秘書”という名目で邸内に頻繁に出入りしており、家の中では彼女の存在感が強まりつつありました。
お母様が辛そうにされていたのを、今でも覚えています」
その言葉に、咲の目から静かに涙がこぼれた。
内藤は深く一礼してから、静かにその場を去っていった。
帰りの車の中。
車内はひどく静かだった。
夜の街灯がぼんやりと車内を染めるなか、咲はずっと、窓の外を見つめていた。
尚紀がゆっくりと口を開いた。
「……咲」
「まさか、そんなことになってたなんて。……事故のことも、ブレーキの整備のことも、母親が亡くなった理由も……私は今日、初めて知った」
「……俺も。……それも、仕組まれていたかもしれないなんて。思い出さなかったのは、辛すぎたからかもしれないな」
「うん……でも、逃げたくない」
咲はそう言って、尚紀の方を見つめた。
「私、自分の過去とちゃんと向き合いたい。母のことも、事故のことも、思い出して……ちゃんと知りたい」
尚紀はそっと頷いた。
「一緒に行こう。君の“答え”を見つけるために」
信号が青に変わる。
ゆっくりと車が動き出すその振動の中で、咲は小さく頷いた。
遠ざけられていた真実に、いま、自分の足で近づこうとしている。
真白の顔合わせと銘打たれたこの席は、誰の目にも“形式的な場”であることが明らかだった。
義母の狙いは、真白を持ち上げながら、咲の立場を揺さぶること。
だが尚紀は、終始穏やかな態度のまま、咲の隣に座り続けていた。
その所作のひとつひとつが、咲を守る意志を表していた。
咲もまた、逃げなかった。
尚紀の隣に、堂々と腰を据えていた。
「真白さん、本当にお綺麗ね。やっぱり御手洗のお嬢さまって感じがするわ」
見合い相手の母親が笑顔でそう言うと、義母は満足げに頷いた。
「小さい頃から礼儀はきちんと仕込んできましたから。——ね、咲?」
「……はい。真白は努力家です」
静かに微笑んだ咲に、義母がひとつ息をつくようにして視線を向けてくる。
「あなたたち姉妹も、小さい頃はそれぞれ違ったわね。真白は外に出たがる子だったけれど、咲はどちらかといえば、おとなしい子だったわ」
義母はふと懐かしむように言葉を継ぐ。
「たしか、しばらく家にこもっていた時期があったでしょう?避暑地から戻ったあとだったかしら」
咲の手が、膝の上でわずかに震えた。
(……避暑地?戻ったあと……)
思い出そうとした瞬間、胸の奥がぞわりと軋むように疼いた。
その言葉に、どこかひどく引っかかる感覚があった。
(お母さんと……どこかへ行った?でも……)
ぼんやりとした映像の端に手が届きかけるが、指先が空を掴むようにすり抜けていく。
「……あまり、覚えていません。母のことで……いろいろと、慌ただしかった気がします」
「まあ、そう。てっきり記憶に残っているものだと思っていたのだけれど」
にこやかに返す義母の声の奥に、探るような鋭さが見え隠れする。
(今の言葉……探ってる?私が、どこまで覚えているのか)
咲の背筋にひやりと冷たいものが走った。
「……失礼します。少し、席を外します」
咲は静かに席を立ち、尚紀も当然のように後に続いた。
義母の目元がわずかに強張るのが見えた。
廊下に出たふたりは、静まり返った空間の中で言葉を交わさずに歩いた。
「……咲、大丈夫か?」
「うん。でも、なんとなく変な感じ。義母の言葉が引っかかってて……」
そのときだった。
「——御手洗咲さん、ですよね?」
後方からかけられた声に、ふたり同時に振り返る。
スーツ姿の初老の男性が、控えめに帽子を取って深く頭を下げた。
「私、かつて御手洗家で運転手をしておりました。内藤と申します。……覚えておられないかもしれませんが、咲さまが幼い頃、何度かご送迎を」
「……運転手さん……」
「はい。本日たまたまこちらに寄ったところ、お姿を拝見して。……どうしても、お伝えしたいことがありました」
咲と尚紀が顔を見合わせる。その直後、内藤は低く声を落とした。
「実は——あの日の事故についてです。避暑地からの帰り道に起きた、あの悲劇のことを」
咲の呼吸が止まったように感じた。
「……私が、事故に?」
「はい。私はその日、運転をしておりませんでした」
「え……?」
「本来であれば私が担当する予定でした。けれど事故当日、今の奥様から“今日は別の者に交代してほしい”と一方的に言われ、運転を外されたのです」
「……なぜ?」
「理由は明かされませんでした。ただ、当時から妙な違和感を覚えていました。さらに事故の直前、義母様の兄上から“ブレーキに関わる部品を交換しておけ”という不自然な整備の指示があり……」
尚紀の顔が引き締まった。
「……事故は、そのブレーキが原因だった?」
「はい。車は山道でブレーキが効かず、ガードレールを超えて……」
咲の胸がひどく痛んだ。
「……母は……」
「残念ながら、即死ではありませんでしたが、病院に到着したときにはもう……」
咲は小さく息を呑んで口元を押さえた。
「私は何もできませんでした。ただ、ずっと後悔していました。あの日、私が運転していれば——と。
そして今日、お姿を見て、もう黙っていることはできないと思ったのです」
「義母は……そのとき、家に?」
「はい。“ご主人の秘書”という名目で邸内に頻繁に出入りしており、家の中では彼女の存在感が強まりつつありました。
お母様が辛そうにされていたのを、今でも覚えています」
その言葉に、咲の目から静かに涙がこぼれた。
内藤は深く一礼してから、静かにその場を去っていった。
帰りの車の中。
車内はひどく静かだった。
夜の街灯がぼんやりと車内を染めるなか、咲はずっと、窓の外を見つめていた。
尚紀がゆっくりと口を開いた。
「……咲」
「まさか、そんなことになってたなんて。……事故のことも、ブレーキの整備のことも、母親が亡くなった理由も……私は今日、初めて知った」
「……俺も。……それも、仕組まれていたかもしれないなんて。思い出さなかったのは、辛すぎたからかもしれないな」
「うん……でも、逃げたくない」
咲はそう言って、尚紀の方を見つめた。
「私、自分の過去とちゃんと向き合いたい。母のことも、事故のことも、思い出して……ちゃんと知りたい」
尚紀はそっと頷いた。
「一緒に行こう。君の“答え”を見つけるために」
信号が青に変わる。
ゆっくりと車が動き出すその振動の中で、咲は小さく頷いた。
遠ざけられていた真実に、いま、自分の足で近づこうとしている。