政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

“約束の場所”に向かう決意

事故の記憶、母の死の真相、そして義母の影。
あまりにも重く、突然に押し寄せた過去の断片に、咲は心のどこかが震えるのを止められなかった。

けれど、尚紀の言葉と、彼のぬくもりが、確かに咲を支えていた。
「一緒に向き合おう」——その言葉が、心の奥深くで火を灯すようだった。

数日後、御手洗家の本宅を訪れた咲は、父と義母のいない昼間の静けさの中で、書庫へと足を踏み入れた。

(お母さんのもの、何か残ってないかな……)

事故のことを改めて調べるよりも、まず、あのときの母が何を思っていたのかを知りたかった。

書棚の奥、埃の積もった箱の中から、ひとつだけ革張りのノートが出てきた。
古びたけれど丁寧に綴られた筆跡に、咲の指先がわずかに震える。

(お母さんの日記……)

ページをめくるたびに、懐かしい香りがよみがえる。
母が咲に語ってくれた言葉、絵本を読んでくれた声。すべてが、そこにあった。

その中の一節が、ふいに目に留まった。

《咲とふたりで、今年も別荘に来れたことが嬉しい。あの子もここが大好き。今日、初めて出会ったという男の子と、すっかり仲良くなって……指切りまでしていた。あんなに笑顔の咲、久しぶり。また会えるといいわね》

「……指切り……」

咲の胸が高鳴った。

(あの男の子……やっぱり、尚紀さん……?)

記憶の中のぼんやりとした光景が、少しずつ色づいていく。
小さな手、笑い声、そして「また会おうね」と交わした指切り。

(“約束の場所”——あの別荘)

忘れていたはずの言葉が、今、確かに蘇ろうとしている。

その夜。

尚紀の帰りを待っていた咲は、リビングのソファに座ったまま、日記を膝の上に置いていた。

「……それ、もしかして……?」

玄関のドアを開けた尚紀が、咲の前に立つ。

咲は小さく頷いた。

「お母さんの日記。見つけたの。……そこに、書いてあったの。あの年の夏、避暑地の別荘に私とふたりで行ったって。……あなたと、そこで出会ったって」

尚紀の目が細められる。

「……じゃあやっぱり、あの場所だったんだな。俺たちが初めて出会った場所は」

咲はノートを胸に抱きしめながら、静かに目を伏せた。

「……行ってみたい。あの場所に。もう一度ちゃんと、自分の記憶をたどって、向き合いたいの」

尚紀は、迷わず頷いた。

「一緒に行こう。……全部、確かめよう」

その言葉が、咲の心を強く支えた。

翌朝、ふたりは週末を使って避暑地へ向かった。

春の光がやわらかく差し込む中、車の窓から見える風景は、どこか懐かしさを帯びていた。
山道に入ると、咲の胸の奥が少しずつざわつきはじめた。

(この道……)

曲がりくねった坂道、木立の影、カーブミラー。
記憶と一致する場所が、いくつも目の前に現れていく。

「大丈夫か?」

尚紀の横顔が、そっとこちらを伺う。

咲は深呼吸して頷いた。

「うん。……怖いけど、行きたい」

たどり着いた別荘は、かつてのままそこにあった。
手入れはされておらず、庭には落ち葉が積もっていたけれど、不思議と空気はやわらかかった。

玄関の前に立った瞬間、咲の視界がふっと揺れた。

——「さき! またね、ぜったい、またあおうね!」

あの声。
小さな男の子が、指を差し出している。

——「ゆびきり、げんまん……」

幼い自分が、笑いながらその小指に自分の指を絡めている。

——「うそついたら、はりせんぼんのーます!」

心の奥から湧き上がる感情と共に、視界がにじんでいく。

咲は、気づけばその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆っていた。

「咲!」

駆け寄った尚紀が、咲の肩を抱きしめる。

「……ごめん……でも、思い出したの。全部じゃないけど……でも、確かにあったの。私……ここで、あなたと……」

「……ああ、俺もずっと、思い出してほしかった」

尚紀の声が、そっと咲を包み込む。

「ここで交わした約束を、俺はずっと信じてきた。……咲が忘れてても、俺は覚えてた」

咲は涙を拭って、顔を上げた。

「ありがとう……思い出させてくれて」

風が吹いた。

山の木々がざわめくなか、ふたりは静かにその“約束の場所”に立ち尽くしていた。

過去が少しずつ癒されていく。
そして、ふたりの未来が、またひとつ確かなものになっていくような気がした
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