政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる
静かなる火花
避暑地から戻った翌朝。
咲は、ふと自分の部屋の空気が少しだけ変わったように感じた。
目覚めた時、どこか心が軽かった。
重く沈んでいた胸の奥に、静かに光が差し込んでいた。
(……私は、もう逃げないって決めたんだ)
思い出した記憶は、まだ断片的だったけれど、それでも十分だった。
あの“約束の場所”で交わした指切りの記憶と、尚紀の温かな言葉が、咲の中に確かな強さを与えていた。
その日、咲は久しぶりに実家へ向かった。
尚紀は「送ろうか」と申し出たが、咲は首を振って一人で行くことを選んだ。
(自分の家のことは、自分で向き合いたい)
そう決意していたからだ。
玄関をくぐると、ちょうど応接間から義母の声が聞こえてきた。
「……ええ。朝比奈家との件は表向きには整っているけれど、いずれ咲には身を引いてもらうつもりよ」
咲は一瞬、立ち止まった。
静かに呼吸を整え、扉を開ける。
「お邪魔します、お義母様」
義母がわずかに肩をすくめたように見えた。
「まぁ、咲。予告もなしに珍しいわね」
「急に思い立って……ちょっと父に書類を渡したくて」
咲は微笑みながら、テーブルに書類の封筒を置く。
「あと、ちょっとだけお話をしたくて」
「私と?」
義母は声を潜めるように笑った。
「なんだか緊張するわね。改まって“話”だなんて」
「緊張しないでください。……私、少しだけ聞いておきたいことがあるだけです」
咲はソファに腰を下ろし、義母と正面から目を合わせた。
「……お母様が亡くなった日のこと。事故のこと、父からも、お義母様からも、何も詳しく聞かされていませんでした」
義母の表情が、わずかに固まる。
「……随分前のことを、今さらどうして?」
「最近、当時の御用車を担当していた運転手さんにお会いしました。——内藤さんという方です」
「……あら。懐かしいお名前ね」
義母の口元が引きつるのを、咲は見逃さなかった。
「彼は話してくれました。“その日、なぜか自分ではなく、別の者が運転を任されたこと”。“義母の兄から、整備の不自然な指示があったこと”。そして——母がその事故で亡くなったこと」
一言一言、丁寧に、はっきりと。
義母は一瞬、何かを言いかけたが、すぐに表情を整える。
「……あなた、何を疑ってるの?」
「疑ってはいません。ただ、知りたかったんです。なぜ、誰も私に教えてくれなかったのか。……あのときの記憶がない私に、何かを隠そうとしていたのではないかと」
「……記憶喪失だったからよ。あなたが混乱しないようにと、皆そう思ったの。私だって、あなたを傷つけたくなかった」
「そうですか」
咲は微笑んだ。その目は、もう揺れていなかった。
「……でも、お母様が亡くなったその日に、なぜ“お義母様の兄”が車の整備に関わっていたのか。偶然にしては……少し、重なりすぎていますよね?」
義母の目に、一瞬怒りの色が浮かんだ。
「……咲、あなた、私を疑っているの?」
「いいえ。ただ、真実を知りたいだけです。——これから先の人生を、真っ直ぐに歩くために」
それだけを言い残し、咲は立ち上がった。
義母の返事はなかった。
その夜、咲は尚紀に報告した。
尚紀は話を遮ることなく、静かに耳を傾けてくれた。
「義母は、ほとんど否定も肯定もしなかった。でも、明らかに動揺してた。……だから、確信したの。きっとあの事故は、偶然なんかじゃなかった」
咲の言葉に、尚紀は頷いた。
「その確信は、きっと正しい。でも、証拠がなければ……」
「……わかってる。だから、私は探す。何か必ず、残ってるはずだから」
「咲……」
尚紀が咲の手をとり、ゆっくりと握る。
「君がどこまで行こうと、俺はずっとそばにいる」
「ありがとう」
その言葉が、咲の心をまた強くした。
そして翌日——
咲の元に、一通の封書が届いた。
差出人はなかった。けれど、開いた中には一枚の古びた写真と、折りたたまれた書類が入っていた。
それは——
かつて咲の母が事故の直前、手書きで残した“ある手紙”のコピーだった。
そして、もうひとつ。
事故車両の整備記録の一部が、そこには添えられていた。
咲は静かに息を呑んだ。
(……これって、もしかして)
誰かが、自分に“真実”を託している。
その確信だけが、咲の胸の奥に強く灯った。
咲は、ふと自分の部屋の空気が少しだけ変わったように感じた。
目覚めた時、どこか心が軽かった。
重く沈んでいた胸の奥に、静かに光が差し込んでいた。
(……私は、もう逃げないって決めたんだ)
思い出した記憶は、まだ断片的だったけれど、それでも十分だった。
あの“約束の場所”で交わした指切りの記憶と、尚紀の温かな言葉が、咲の中に確かな強さを与えていた。
その日、咲は久しぶりに実家へ向かった。
尚紀は「送ろうか」と申し出たが、咲は首を振って一人で行くことを選んだ。
(自分の家のことは、自分で向き合いたい)
そう決意していたからだ。
玄関をくぐると、ちょうど応接間から義母の声が聞こえてきた。
「……ええ。朝比奈家との件は表向きには整っているけれど、いずれ咲には身を引いてもらうつもりよ」
咲は一瞬、立ち止まった。
静かに呼吸を整え、扉を開ける。
「お邪魔します、お義母様」
義母がわずかに肩をすくめたように見えた。
「まぁ、咲。予告もなしに珍しいわね」
「急に思い立って……ちょっと父に書類を渡したくて」
咲は微笑みながら、テーブルに書類の封筒を置く。
「あと、ちょっとだけお話をしたくて」
「私と?」
義母は声を潜めるように笑った。
「なんだか緊張するわね。改まって“話”だなんて」
「緊張しないでください。……私、少しだけ聞いておきたいことがあるだけです」
咲はソファに腰を下ろし、義母と正面から目を合わせた。
「……お母様が亡くなった日のこと。事故のこと、父からも、お義母様からも、何も詳しく聞かされていませんでした」
義母の表情が、わずかに固まる。
「……随分前のことを、今さらどうして?」
「最近、当時の御用車を担当していた運転手さんにお会いしました。——内藤さんという方です」
「……あら。懐かしいお名前ね」
義母の口元が引きつるのを、咲は見逃さなかった。
「彼は話してくれました。“その日、なぜか自分ではなく、別の者が運転を任されたこと”。“義母の兄から、整備の不自然な指示があったこと”。そして——母がその事故で亡くなったこと」
一言一言、丁寧に、はっきりと。
義母は一瞬、何かを言いかけたが、すぐに表情を整える。
「……あなた、何を疑ってるの?」
「疑ってはいません。ただ、知りたかったんです。なぜ、誰も私に教えてくれなかったのか。……あのときの記憶がない私に、何かを隠そうとしていたのではないかと」
「……記憶喪失だったからよ。あなたが混乱しないようにと、皆そう思ったの。私だって、あなたを傷つけたくなかった」
「そうですか」
咲は微笑んだ。その目は、もう揺れていなかった。
「……でも、お母様が亡くなったその日に、なぜ“お義母様の兄”が車の整備に関わっていたのか。偶然にしては……少し、重なりすぎていますよね?」
義母の目に、一瞬怒りの色が浮かんだ。
「……咲、あなた、私を疑っているの?」
「いいえ。ただ、真実を知りたいだけです。——これから先の人生を、真っ直ぐに歩くために」
それだけを言い残し、咲は立ち上がった。
義母の返事はなかった。
その夜、咲は尚紀に報告した。
尚紀は話を遮ることなく、静かに耳を傾けてくれた。
「義母は、ほとんど否定も肯定もしなかった。でも、明らかに動揺してた。……だから、確信したの。きっとあの事故は、偶然なんかじゃなかった」
咲の言葉に、尚紀は頷いた。
「その確信は、きっと正しい。でも、証拠がなければ……」
「……わかってる。だから、私は探す。何か必ず、残ってるはずだから」
「咲……」
尚紀が咲の手をとり、ゆっくりと握る。
「君がどこまで行こうと、俺はずっとそばにいる」
「ありがとう」
その言葉が、咲の心をまた強くした。
そして翌日——
咲の元に、一通の封書が届いた。
差出人はなかった。けれど、開いた中には一枚の古びた写真と、折りたたまれた書類が入っていた。
それは——
かつて咲の母が事故の直前、手書きで残した“ある手紙”のコピーだった。
そして、もうひとつ。
事故車両の整備記録の一部が、そこには添えられていた。
咲は静かに息を呑んだ。
(……これって、もしかして)
誰かが、自分に“真実”を託している。
その確信だけが、咲の胸の奥に強く灯った。