政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

契約結婚という現実

料亭での顔合わせを終えた帰り道、車内の空気は妙に静かだった。

私の隣で腕を組んだ父は、何かを考えるように目を細め、黙ったまま夜の街を眺めている。
前の席には義母が控えめに座り、視線を伏せていた。

ほんの数時間前に、私は“結婚相手”と初めて言葉を交わした。
朝比奈尚紀。朝比奈グループの御曹司であり、若くして専務を務める男。
形式だけの政略結婚相手——そう思っていたのに、彼はあまりにも完璧だった。

言葉遣いも所作も申し分なく、表情の一つすら無駄がない。
あまりに整いすぎていて、感情が読み取れないほどだった。

「咲、よくやったな」

運転席に小さく声をかけた父が、隣の私に視線を向ける。
いつもより柔らかい声音に、思わず顔を向けた。

「朝比奈専務も、なかなかの人物だった。冷静だが礼儀は正しいし、家のことにも理解がある。いい縁談だったな」

「……はい」

短く返事をしたけれど、本心はよくわからなかった。

いい縁談。家のため。
その言葉を何度繰り返されたか。耳にたこができるほど聞いたはずなのに、実際に本人と対面した今、妙に現実味を帯びて胸にのしかかってくる。

この人と、夫婦になる。
契約とはいえ、同じ屋根の下で生活を共にする。

感情のない結婚——そう思っていたのに、彼の冷静な言動の裏に、得体の知れない距離感があった。

冷たいわけじゃない。かといって親しげでもない。
それが逆に、私を惑わせた。

数時間後。
夕食のためリビングに行くと、義母がすでに待っていた。
笑顔を浮かべながら、さも気遣うような声をかけてくる。

「咲、今日はお疲れだったでしょう?」

「……はい。特に問題なく終わったと思いますが」

「朝比奈専務、評判通りの方だったでしょう?」

「ええ。とても礼儀正しくて、落ち着いた方でした」

言葉を選びながら返すと、義母はにこりと微笑む。

「そう。なら安心ね。あなたもようやく、家のために役立てたわけだし」

わずかに強調された“ようやく”の響きに、胸の奥が冷たくなる。

私がどれだけこの家で静かに、誰にも迷惑をかけず生きてきたかなんて、この人は知らないし、知ろうとも思っていない。

「……そうですね」

たとえ口には出さなくても、これが義母なりの評価なのだと思うと、笑うしかなかった。

「結婚の日取りや新居の準備は、こちらで手配しておくわ。あなたは相手に失礼のないように、少しは“花嫁”としての自覚を持ちなさいね」

「……ありがとうございます」

夕食を終え、自室に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
布団の上に身体を投げ出し、天井を見上げながら深く息を吐く。

“自覚を持て”と言われたけれど、どう持てばいいのか、私にはわからない。

翌朝、朝比奈家から正式な婚約通知と一緒に、書類の束が届いた。
弁護士立ち会いのもと作成された婚姻契約書と、それに付随する生活面の取り決め——そして一枚の写真。

《新居について》

・住所:都内高級住宅街
・物件:朝比奈専務個人所有マンション
・間取り:3LDK(主寝室・ゲストルーム・書斎)
・同居開始日:婚姻届提出の翌日
・生活費・管理費:朝比奈家負担
・契約内容:両家合意による信頼関係の構築を目的とした結婚
 (将来的な関係の継続は、両者の意思に委ねる)

目を通すたびに、これは“結婚”というより“協定”なのだと、嫌でも理解させられる。

写真に写っていたのは、白を基調としたモダンな室内だった。
高層階らしく、大きな窓からは街の景色が見下ろせる。ベッドルームは広く、ダイニングには4人掛けのテーブル。

あまりに整いすぎたその空間が、どこか現実離れしていて、息苦しくさえ感じられた。

(……ここで、彼と暮らすの?)

まだ一度しか顔を合わせていない相手と、生活を共にする。
たしかに名前も顔も知ってはいる。でも——

ほんの数時間、形ばかりの挨拶と取り決めを交わしただけ。
それで“夫婦”になるなんて、どれだけ非現実的なのだろう。

けれど私は、うんざりするほど現実を見てきた。

家の経営。義母との確執。
形だけの“家族”の中で、空気のように過ごしてきた日々。

(それに比べれば……)

誰にも期待されず、誰も私に干渉しない“契約結婚”の方が、よほど平穏かもしれない。

それでも、心のどこかがざわつくのは——彼の言動の端々に、何かを感じたからだ。

淡々としているのに、突き放すような冷たさはなかった。
視線の奥に、ほんのわずかな熱があるように思えたのは、私の思い違いだろうか。

スマートフォンを手に取り、「朝比奈尚紀」と検索する。

出てきたのは、財界系のニュース記事と、パーティでの写真。
どれも同じようなポーズで、同じように微笑んでいる。どこか作られた印象だった。

その中で、ふと、1枚の写真に目が止まった。

会見の合間だろうか。誰かと話している最中の横顔。
そのときだけ、彼はほんの少し口角を緩めていた。

——あのとき、料亭で私の返事を聞いた直後に見せた表情と、同じだった気がする。

「……やっぱり、掴めない人」

ぽつりとつぶやいた言葉が、夜の静けさに吸い込まれていった。

明日から、私は彼の妻になる。

契約結婚という形の中で、彼と共に生きる日々が始まる。

愛なんて、最初から求めていない。
けれど心のどこかで、私はあの人の“本当の顔”を見てみたいと思っていた。
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