政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

あなたといる場所だけが、安心できる

義母との対面から数日が経った。

咲は元使用人の手がかりを探そうと、書庫や書斎に足を運びはじめていた。
けれど、成果はまだ出ない。

「高倉千代」という名前だけが、母の残した書類の片隅に見つかったが、
連絡先も住所も分からないまま——時間だけが過ぎていく。

そんなある日、実家に立ち寄った咲は、義母から思いがけない“言葉”を浴びせられた。

「まあ、咲さん。まだ朝比奈さんのところにいるの?」

応接間で紅茶を傾けながら、義母はわざとらしい笑みを浮かべた。

「てっきりもう戻ってきているかと思っていたのだけれど。……ほら、“あの結婚”って、あくまで建前だったのでしょう?」

咲の手がわずかに震えた。

「……はい、それは、最初は——」

「最初は?」義母がわざと語尾を伸ばす。「つまり、今は違うとでも?」

咲は口を閉ざした。

義母の笑みはそのまま、鋭く目を細める。

「あなたね、あれは“政略結婚”なの。互いの家の体裁を保つための取り決め。
それ以上でも、それ以下でもない。……まさか、自分が“本当の妻”になったつもりじゃないでしょうね?」

ぐっと胸の奥を掴まれるような痛みが走る。

(わかってる……そんなこと、わかってる。でも——)

「……失礼します」

咲はそれ以上何も言わず、立ち上がった。

その背中に、義母の声が追いかけてくる。

「身を引くなら、早い方がいいわ。情なんて残さないうちに」

その夜。
尚紀はいつもより早く帰宅してきた。

リビングのソファで俯いていた咲の隣に座ると、黙ってその手を取った。

「……何があった?」

咲はゆっくり顔を上げる。

「……義母に言われたの。“政略結婚なんだから、本気になるな”って」

尚紀の目が細くなる。

「それで?」

「……それで、胸が痛かった。何も言い返せなかった。私が、最初からこの家に来た理由は“契約”だったから」

ぽつりと漏れる声は、どこか無力で。

けれど尚紀は、咲の手を強く握りしめた。

「咲」

呼ばれた名前に、びくりと肩が揺れる。

「もういい加減にしてくれ。“政略結婚”だろうが、取り決めだろうが——俺は、君を“妻”として迎えた。それ以外の理由なんて、今は関係ない」

「……でも」

「お前がどう思っていようが、俺にとっては最初から“本物”だった」

その言葉に、胸が詰まった。

「俺が選んだのは、“条件”じゃない。咲という人間だ」

「……尚紀さん」

咲は思わず唇を震わせた。

「そんなふうに言われたら、……私、また期待してしまう。あなたの優しさに甘えて、勘違いしてしまいそうになる」

「していい」

尚紀は言った。

「勘違いでもなんでもいい。俺の隣にいてくれるなら、それだけでいい」

夜が深まり、咲は眠れずにベッドの上で天井を見つめていた。

ふと、横を見る。

尚紀は隣で、目を閉じていた。

静かな寝息——と思いきや、薄く目を開け、こちらを見ていた。

「……眠れないのか?」

「うん……少し」

尚紀が、そっと手を差し伸べてくる。

「こっち、来い」

咲は一瞬迷ったが、その手に応えるように、尚紀の腕の中に身を委ねた。

「尚紀さん……。今さらだけど」

「ん?」

「こうしてると、安心する」

「……お前のほうから、そう言う日が来るとはな」

どこか照れたように笑いながら、尚紀は咲の髪を撫でた。

その手が、あたたかくて優しくて——涙がにじみそうになる。

(この人といると、苦しくなるのに、どうしてこんなに落ち着くんだろう)

咲は小さな声で呟く。

「……尚紀さん。私、今すごく怖いの。あなたを好きになりすぎそうで」

「遅い」

尚紀は真っ直ぐに、咲の目を見た。

「……もう、お前は俺のものだ」

胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。

そんなこと、簡単に言わないで——でも。

言ってほしくて、ずっと待っていた。

咲は、そっとその胸に顔を埋めた。

この腕の中だけが、今の自分の居場所だと、確かに思えた。
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