政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

溺れるくらい、甘くて苦しい

尚紀の腕の中で目を閉じながら、咲は微かに震えるまつ毛を伏せた。

ぬくもりが伝わってくる。
心臓の鼓動が、すぐ近くにある。

だけどそれ以上に——胸の奥が、ずっと、熱くて苦しかった。

(どうして……こんなに、安心するのに、泣きたくなるのかな)

ほんの少し身体をずらすと、尚紀の腕がぎゅっと強くなった。

「……眠れない?」

低く落ち着いた声が、耳元に届く。

咲は小さく頷いた。

「うん……まだ、ちょっとだけ」

尚紀がわずかに身を起こす。
そして咲の頬に指を沿わせ、その目を覗き込んだ。

「何か、考えてる?」

「……たくさん」

「たとえば?」

「……あなたのこと」

それは、半分照れ隠しのような答えだったのに、尚紀の表情が真剣になる。

「どんなふうに?」

咲は少し視線を逸らす。

「優しすぎるところとか、……ずるいなって思う」

「俺が?」

「うん。そんなふうにされたら、勘違いしちゃう。……期待して、好きになって、傷つくって、分かってるのに」

尚紀はふっと息を吐く。

そのまま、咲の両肩を軽く押さえて、ベッドに寝かせた。

視線が合う。
真っ暗な部屋の中、わずかな月明かりが彼の横顔を照らしていた。

「勘違いじゃないよ、咲」

「……え?」

「期待されても、好きになられても、俺は困らない。むしろ……」

少しだけ、顔が近づいた。

「もっと、期待してくれ」

その言葉と共に、唇が重なった。

静かで、深くて——優しいキスだった。

咲は目を閉じて、尚紀の唇を受け止める。

(……ずっと、こうしたかった)

(この人に触れられたかった。……心の奥から、そう思ってた)

キスの合間に、ふと尚紀が呟いた。

「……咲が、俺のことを思い出してくれるまで……どれだけ我慢してたか、分かってないだろ」

「え……?」

「最初からずっと、抱きしめたくて仕方なかった。けど、君に記憶がないって分かってたから……無理はさせたくなくて、ずっと抑えてた」

その言葉が、心に染み込むようだった。

「……ありがとう」

ぽつりと零れる声に、尚紀が目を細める。

「ありがとう、じゃない」

咲をそっと抱き寄せ、耳元でささやいた。

「“好き”って、言ってほしい」

息が止まりそうになった。

(言いたい。でも……言ったら、もう戻れなくなる)

(この関係に名前をつけたら、私はきっと……本当に、恋に落ちてしまう)

尚紀の指が、そっと咲の髪を撫でた。

その手が、優しくて、切なくて——思わず、涙がこぼれそうになった。

「……言えるようになったら、ちゃんと伝える。……だから、待ってて」

咲がそう絞り出すと、尚紀はゆっくり頷いた。

「……わかった。待つ。でも」

その声が、少し低くなる。

「それまでの間、こうしてるくらいは……許されるよな?」

咲は何も言わずに、尚紀の胸に顔を埋めた。

翌朝、目を覚ますと、尚紀はすでに身支度を終えていた。

ネクタイを締めるその後ろ姿に、咲はしばらく目を奪われる。

(いつも完璧で、冷静で。なのに私の前では、ときどき……甘くて、熱くて)

尚紀が振り返る。

「……起こしちゃったか?」

「ううん。もう起きる」

咲が布団を出ようとしたその瞬間、尚紀がベッドに腰を下ろし、顔を寄せた。

「今日も可愛いな」

「……尚紀さん」

「そろそろ覚悟決めて?」

「え?」

「俺を、どこまで本気にさせる気だ?」

咲の胸が跳ねた。

言葉を失ったまま見つめる咲に、尚紀は唇を寄せるふりをして——そのまま額にキスを落とした。

「行ってくる」

そう言って微笑むその顔が、咲の鼓動をまたひとつ早めた。

扉が閉まった後も、咲はしばらく動けなかった。

(私……尚紀さんのこと、もうとっくに……)

ゆっくりと自分の胸に手を当てる。

そこには、まだ熱が残っていた。
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