政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

契約じゃなく、“夫婦”として

朝、出勤前の尚紀を玄関で見送るのが、いつの間にか習慣になっていた。

「ネクタイ……、ちょっと曲がってる」

「直して」

尚紀があっさりと身を屈めてくる。

咲が両手で整えると、彼はじっとその目を見て、にやりと口角を上げた。

「……毎朝こうやって送り出されるの、悪くない」

「……何か言いたげな顔、してましたよね?」

「してない」

「してます」

ふたりで笑い合ったあと、尚紀が小さく囁く。

「……これがずっと続けばいいのに、って思ってただけ」

その一言に、咲の心臓が軽く跳ねた。

思わず視線を逸らすと、尚紀はくすっと喉を鳴らして、優しく頭を撫でてから家を出ていった。

その午後。

咲は父に頼まれて実家に立ち寄った。
久しぶりに義母と顔を合わせたが、相変わらず彼女の態度は冷たかった。

「……真白が、この前のお見合いでいい返事をもらったの。相手は大手財閥のご子息でね。将来的に御手洗家と手を組める話も出ているわ」

「……そうですか」

咲は努めて平静に返す。だが、義母の目は鋭くなる。

「あなたには、わからないでしょうけど。家の“未来”を考えれば、こうした縁談はとても重要なの」

「それは……そうですね。私が口を挟むことではないと思います」

「ええ、当然よ」

義母が膝の上で手を組んだ。

「そもそもあなたは、朝比奈家との取り決めのために嫁いだだけの人間。最初から“本家の跡取り”として扱うつもりはなかったのよ」

その瞬間、咲の中で何かが音を立てて崩れた。

(……私には資格がない?)

(でも、私は——)

咲はゆっくりと顔を上げ、義母をまっすぐに見つめた。

「それは違います」

「……何ですって?」

「私は先日、家系図を見ました。御手洗本家は、“母の血筋”で継がれている家。父は婿として迎えられた方です。つまり——母の血を引く私こそが、本家の正統な後継者です」

義母の表情がぴくりと動いた。

「あなたが推そうとしている真白さんは、確かに“あなたの娘”かもしれません。でも——」

咲は言葉を強める。

「真白さんは“御手洗の血”を一滴も引いていません」

「……!」

「“血のつながり”を口にするなら、それはあなたたちの側こそ、御手洗家とは無関係です」

沈黙が落ちた。

咲の声音は静かだったが、凛とした響きを持っていた。

「私は、母が命がけで守ろうとしたこの家の、正統な後継者です」

「……あなたに、そんな口を利く資格が——」

「あると思っています」

言い切った咲の目は、揺れていなかった。

家に戻ると、リビングにはすでに尚紀がいて、ネクタイを緩めながらソファに座っていた。

「おかえり。……顔、曇ってるな」

「……ごめんなさい」

咲はふと立ち止まり、そのままソファの前に座り込んだ。

尚紀が、咲の肩に手を置く。

「何があった?」

「……義母に言われたの。“あなたに、御手洗を語る資格はない”って」

尚紀の目が静かに細くなる。

「……そっちから仕掛けてきたってわけか」

「……私は、何もしてないのに」

「知ってる。君はいつも、自分の居場所を探そうとしてるだけだろ?」

咲は目を見開いた。

尚紀の言葉が、心の奥に真っ直ぐ届いた。

「……尚紀さん」

「今さら“さん”呼びはやめろ」

不意に、尚紀の手が咲の頬に触れる。

「いいか、咲。はっきり言っておく」

「……?」

「お前は、俺の妻だ。“契約”とか“取り決め”とか、そんなのは関係ない」

その声音に、胸がしびれるようだった。

「あの義母がどう動こうと、俺の決めたことは変わらない。お前を守る。それだけだ」

「……でも」

「“でも”は禁止。誰に何を言われても、お前の価値は俺が決める」

咲の瞳に、じわりと涙がにじむ。

「そんなふうに、言われたら……また期待しちゃうのに」

「していいって、言っただろ」

尚紀がゆっくりと咲の額にキスを落とした。

「期待して、頼って、俺に甘えてくれればいい」

「……泣いちゃいます」

「泣け」

その一言があまりにも優しくて、咲はついに声もなく、ぽろりと涙を落とした。

その夜、寝室に向かう前に、咲は一度鏡の前に立った。

指には、昨日尚紀から贈られた指輪が光っている。

(私はもう、“条件で嫁いだ女”じゃない)

(この人がくれる言葉のひとつひとつが、私を“妻”にしてくれている)

(そして私は——御手洗家の“正統な娘”でもある)

鏡の向こうの自分が、少しだけ強くなったように見えた。
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