政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

嘘でも建前でもなく

朝になっても、胸の奥のざわつきは消えなかった。

義母の言葉は、時間が経つほど、じわじわと心に沁みてくる。

——御手洗家の後継としてふさわしくない

（……私は、御手洗本家の娘。母の血を引く正統な後継者……それでも、“ふさわしくない”って言われた）

（私は……何もできない子供のままなのかな）

事故の記憶、義母の存在、母の死、政略結婚——
今までの自分を思えば、確かに弱かったと思う。

だけど、今は。

（もう逃げないって、決めたんだ）

そう思わせてくれたのは、尚紀の存在だった。
優しさと包容力で、自分の不安を包み込んでくれた彼。

（尚紀さんの隣に、ちゃんと立ちたい）

その日の午後、咲は街に出ていた。

ふらりと歩いた先で、小さな雑貨屋のウィンドウ越しに、自分の姿が映った。

——あの頃の私と、違って見える。

（母が残してくれたものを、ちゃんと受け継げる自分に、なりたい）

ふと手に取ったカードに、こんな言葉が書かれていた。

《未来のあなたへ——きっと、今の選択があなたを変えてくれる》

咲は静かに微笑んで、それをそっと戻した。

帰宅後、スマートフォンに尚紀からのメッセージが届いた。

「今夜、屋上に来てほしい。待ってる」

咲はその短い言葉に、胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。

夜。

高層マンションの屋上は、都会の喧騒とは別世界のように静かだった。
星が見える夜。煌めく街の光が、まるで舞台の照明みたいに優しく照らしていた。

尚紀は、咲に気づくとゆっくりと歩み寄ってきた。

「……来てくれて、ありがとう」

「尚紀さんが呼んでくれたんだから」

「……今日も、綺麗だな」

「……今日は、少し自信があるの」

咲が微笑むと、尚紀の目が優しく細められる。

「……何があった？」

「義母に言われたの。“御手洗家の後継としてふさわしくない”って」

尚紀の顔に、冷たい怒りが走る。

「……で？」

「でも私は、引き下がらなかった。私が正統な後継者だって言い返した」

咲の声には、揺るがぬ決意が込められていた。

「……尚紀さんが言ってくれた“君は俺の妻だ”って言葉、あれがあったから、私、負けなかった」

尚紀が、ゆっくりと彼女の肩を抱き寄せる。

「……咲。君は、俺にとって誇りだよ」

その一言が、胸の奥にじんと響いた。

「私、ずっと怖かったの。“契約の妻”って言葉に、自分が見合ってないんじゃないかって。でも……もう、言える」

咲はまっすぐに尚紀の瞳を見た。

「私、あなたのことが好きです。政略とか、取り決めとか関係なく、ひとりの人間として、あなたが好き」

尚紀の目が、優しさと安堵の色を帯びる。

「……やっと聞けたな、その言葉」

咲は微笑んで、そっと尚紀の胸に額を預けた。

「今まで言えなかったの。信じるのが怖くて。でももう、嘘も建前もいらない。“妻として愛される自分”を、受け入れたい」

尚紀はしっかりと咲を抱きしめた。

「……咲。俺も、君のことを愛してる。ずっとずっと、好きだった」

「思い出してよかった。あなたが、私の最初の恋で、今も変わらずそうでいてくれるって分かって……本当に、よかった」

風が吹き抜ける屋上で、ふたりの影が静かに重なっていた。

「……契約でも、家のしがらみでもない。俺は、君と生きたい」

「うん。私も、あなたと夫婦でいたい。ちゃんと、心で結ばれた“夫婦”として」

その夜、寝室で指輪を外しながら、咲はふと鏡に映った自分を見た。

昨日までとは違う。目に力がある。

（私は御手洗本家の娘で、朝比奈尚紀の妻）

そう胸の中でつぶやいて、小さく笑った。