政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

仕事中の甘い横顔

「今日は、会社までお弁当を届けに行ってもらえますか?」

尚紀の秘書・佐伯からそう連絡が入ったのは、昼前のことだった。

「社長が、今朝うっかり昼食を持って行くのを忘れてしまって……本当は自分が行くべきなんですが、急な来客が入ってしまって」

「わかりました。私が届けます」

咲は自然と答えていた。

(届けるくらい、全然平気。……でも)

車の窓越しに見上げた朝比奈本社ビルは、まるで別世界のようにそびえ立っていた。

(あらためて来ると、やっぱり緊張する……)

受付を通され、エレベーターで最上階に向かう。
周囲の視線が、なんとなく気になった。

スーツを着た女性社員たちが、咲をちらちらと見ている。

やがて秘書室に案内され、応接スペースに入ると、すぐに尚紀が姿を見せた。

「……来てくれてありがとう」

その姿は、いつものリラックスした尚紀ではなく、バリッとスーツを着こなした“仕事中の顔”だった。

咲が差し出した手提げ袋を受け取りながら、尚紀は口元を緩めた。

「まさか、本当に来てくれるとは」

「秘書の方から連絡があって……。尚紀さん、わざと今朝持っていくの忘れたでしょう?」

「……バレたか」

咲は小さく笑った。

けれど、そのやりとりを見ていた社員たちは、ざわ……と空気を揺らしていた。

その気配に気づいたのか、尚紀は応接スペースのドアをわざと開けたままにして言った。

「彼女は、朝比奈咲。俺の妻だ」

静まり返った空気が、一瞬でざわついた。

咲がぎょっとして尚紀を見ると、彼はあくまで平然とした表情で続けた。

「社内では知らない人も多いと思うが、正式に婚姻届を出している。……挨拶が遅れてすまなかったな」

咲の頬が一気に赤く染まる。

「な、尚紀さん、そんなにオープンにしなくても……!」

「なんで?」

尚紀はさらりと返す。

「隠す理由がない。堂々としてればいい」

「で、でも……」

「むしろ、お前が俺の妻だってことを、もっと早く言っておくべきだった」

そう言って、咲の手を取って引き寄せた。

周囲の視線がさらに熱を帯びる。

(ちょっと……恥ずかしい……!)

「こうして見せておかないと、“社長の奥様”に近づこうとする物好きが後を絶たないからな」

「物好きって……」

「何か問題でも?」

尚紀がふっと笑う。
その顔はあくまで冷静で、理性的——けれど、目の奥だけが甘く光っていた。

咲はもう何も言い返せず、ただ黙って頬を染めていた。

応接室を出た後、尚紀はエレベーターホールまで咲を送った。

「……ごめん、嫌だったか?」

「……ううん」

「顔、真っ赤だった」

「それは……恥ずかしかっただけで……」

咲はちらりと尚紀を見る。

「……でも、嬉しかったよ」

尚紀が驚いたように目を瞬かせ、すぐに優しく笑った。

「……そう言ってもらえるなら、良かった」

「けど、次はもう少し、段階踏んでくれると……ありがたいです」

「それは難しいかもな」

「なんで?」

「たまには見せびらかしたいんだよ、俺の“特別”を」

咲の胸がじん、と熱くなる。

(“特別”……)

尚紀の声は、何気ないようで、ものすごくまっすぐで。

そして何より、心の奥に甘く沁みた。

「今夜、早めに帰れそうだから。一緒に食べよう」

「うん、待ってる」

別れ際、尚紀は人目もはばからず咲の髪に指を絡め、耳元にそっと囁いた。

「……今夜、覚悟しておけよ」

咲の顔が一気に熱くなる。

「な、なにそれ……!」

「俺の“好き”が、まだ足りないと思ってるんじゃないかと思って」

「思ってませんっ」

「じゃあ、足してやる」

不敵な笑みを残してエレベーターに乗り込んだ尚紀に、咲はしばらくその場で固まっていた。

(もう……どうしてあんなこと、平然と言えるの……)

でも。

(そんなあなたに、私……どんどん惹かれてる)

扉が閉まる寸前、尚紀が口パクでこう言った。

——好きだよ

咲の心臓は、思わず跳ね上がる。

社長室よりも、街の灯りよりも、何より眩しく感じたのは——
尚紀のその笑顔だった。
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