政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

新居にて、仮初めの夫婦生活

重たいスーツケースを引きながら、私はマンションのエントランスを見上げた。
まるで高級ホテルのような佇まいに、思わず背筋が伸びる。

都内有数の高級住宅街。
この一帯には一般の賃貸物件は存在せず、住人は企業の役員や著名人ばかりだと聞いていた。

そんな場所に、自分が“住む”ことになるなんて。

「……現実感がないな」

小さくつぶやいた声が、自動ドアに吸い込まれていく。
エントランスに立つコンシェルジュが、にこやかに一礼してくる。
予約されていたらしく、咲の名前を告げるとすぐに鍵を手渡された。

「お部屋は最上階、38階の南向きでございます。すでにご主人様はご在宅です」

“ご主人様”という響きに、思わず背筋がぞわっとした。
まだ何の実感もないまま、私は“朝比奈尚紀の妻”として、ここに住むことになる。

エレベーターの扉が閉まり、静かに上昇していく。
数字が一つずつ増えていくたび、胸の中で不安が膨らんでいった。

新しい生活。知らない家。知らない人。

結婚して、夫婦になって、それでも私たちは、お互いの何も知らない。

そう思っているうちに、エレベーターが止まり、音もなく扉が開いた。

鍵を差し込み、ドアを開けた瞬間、ほのかにコーヒーの香りがした。
広々としたリビング。白とグレーを基調としたインテリア。大きな窓からは、都会の夜景が一望できる。

「ようこそ」

振り返った先にいたのは、紛れもなく朝比奈尚紀だった。

いつものようにスーツを着ていたが、ネクタイは外されていて、少しだけラフな印象を与える。
だけどその表情は、やはり変わらず無表情に近く、どこか淡々としていた。

「お荷物、お持ちしましょうか」

「あ、いえ……大丈夫です」

とっさに断ったものの、尚紀はすでにこちらに歩み寄ってきていた。
彼の指先が、私のスーツケースの取っ手に触れる。
その一瞬の距離感に、私はなぜか息を詰めた。

「寝室はこっち。君の部屋は自由に使っていい」

通されたのは、リビングに隣接する明るい洋室だった。
必要最低限の家具が整っていて、余計な装飾のない、どこか事務的な雰囲気。

「……私専用の部屋なんですね」

「無理に一緒に寝るつもりはないよ。これは契約結婚だから」

そう言った彼の声は、まるで義務を説明するように冷静だった。

けれど、心のどこかが微かにざわついたのは、否定できない。

(そうよ。これはただの契約)

期待する方が間違っている。
そう言い聞かせて、私は部屋の中へ足を踏み入れた。

夕食は、それぞれで済ませるのが基本——
そう事前に聞かされていたので、私は荷ほどきが終わったあと、簡単なサンドイッチを作って済ませた。

リビングに戻ると、尚紀がソファに座り、ノートパソコンを開いていた。
背筋を伸ばしたまま、黙々と資料を確認している姿は、まるで部下の目を気にしているビジネスマンのようだった。

「お仕事、お忙しいんですね」

そう声をかけてみたものの、尚紀は軽くうなずくだけだった。

「今日は、急ぎのものが少し。気にしないで」

その淡々とした言葉に、どこか寂しさを感じる自分がいた。
不思議だった。初めて会ったばかりの相手に、どうしてこんな風に感情を動かされるんだろう。

「この部屋……すごく綺麗ですね」

「そう?」

「物が少なくて……生活感がないというか」

「掃除が楽だから。生活は、できるだけシンプルにしてる」

(やっぱり、何を考えているのか分からない人)

無機質なやり取りの中で、それでも尚紀は時折、こちらに視線を向けていた。
冷たくも、優しくもない、その目に、何が映っているのかは分からない。

「何か、困ったことがあれば言って」

「はい。ありがとうございます」

形だけの言葉。けれど、それでもどこか、安心したような気持ちがした。

その夜、ベッドに横たわりながら、私は天井を見つめていた。

新居の空気はまだ肌に馴染まなくて、どこかよそよそしい。

これが、私の“新しい生活”。

形式だけの結婚。感情のない夫婦。
それでも、あの人の言葉の端に、どこか人間味を感じたのは……気のせいだろうか。

思い返せば、今日だけで何度も自分に「気のせい」と言い聞かせている。

けれど、そのたびに、否定できない何かが心の奥に残ってしまう。

きっとそれは、これからの日々が教えてくれるのだろう。
この関係が、どこへ向かうのかを——
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