政略結婚ですが、冷徹御曹司はなぜか優しすぎる

誰にももう、邪魔はさせない

記者会見から数日後——

御手洗分家の屋敷では、かつての中心人物であった義母・美鶴と、兄・康臣が静かに荷をまとめていた。

「……本当に、退任なのね」

「三条が出てきた時点で詰みだった。……あの男が本気で口を開いたら、誰も逆らえない」

康臣の声には、皮肉も悔しさも滲んでいなかった。
ただ、諦めきった者の静けさがあるだけだった。

「まさか、咲があそこまでやるとはね……」

「“あの子”は、あの母親の血を継いでるんだ。俺たちは、ちょっと“甘く見すぎた”ってことだ」

義母は唇を噛みしめた。

(これで、御手洗家は——咲のもの)

その頃。

尚紀と咲は、久しぶりにゆっくりとした朝を迎えていた。

休日。
陽の光がリビングに差し込む中、ふたりは隣り合ってソファに腰掛け、テレビもつけずにただ静かな時間を過ごしていた。

「……何もない朝って、なんか不思議ね」

咲がぽつりと呟く。

「事件も陰謀もなし。義母も消えて、康臣もどこかに引っ込んだ。こんなに平和でいいのかって思うくらいだな」

尚紀は、彼女の髪をくしゃっと撫でながら笑った。

「でも、こういうのがずっと欲しかったんじゃない?」

「……うん」

咲は小さく微笑んだ。

「昔の私は、ただ“普通になりたかった”だけだった。でも、結局それが一番遠くて、一番難しいことだったんだよね」

「今は?」

「……今は、もう“普通”じゃなくてもいい。あなたといることが、私にとっての“特別な普通”だから」

尚紀は咲の手をそっと取り、指を絡めた。

「……甘やかしていい?」

「え?」

「いや、今までずっと我慢してた。……お前の気持ちが追いつくまで、無理に距離を詰めたくなかった」

「……」

「でも、もう全部終わった。誰にも邪魔されない。だから——」

尚紀は、咲の手を引き寄せ、唇をそっと重ねた。

「……もう、遠慮しない」

咲の胸が高鳴る。

「な、尚紀さん……」

「咲。君が俺の名前を呼んでくれるだけで、心臓が爆発しそうなんだが」

「えっ、そんなことで?」

「そんなことって言うな。俺はずっと、君の声を待ってたんだ」

咲は思わず笑いながら、頬を赤らめた。

「じゃあ……尚紀さん。……これからも、名前で呼ぶから」

「ずっと呼んでて。——できれば、俺しか知らない声で」

「……それは、今度こっそり」

尚紀は肩を震わせるように笑った。

夕方。

バルコニーに出ると、春の風が心地よかった。

咲は尚紀の隣に寄り添い、そっと呟く。

「……ありがとう、尚紀さん。本当に全部、終わったんだね」

「いや。終わったんじゃない。ここから始まるんだよ、“君と俺の”本当の未来が」

咲は目を閉じ、静かにその言葉を胸に刻んだ。

(これまでは、過去と向き合う時間だった)

(これからは、未来を描く時間)

尚紀のぬくもりに包まれながら、咲はもう二度と揺るがない自分を感じていた。
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